閑話:日常的な時間の矢(Time's Arrow)(2)

 生活世界で成り立つ「因果性の原理」は「時間の矢」とほぼ似た内容を主張しています。原因Aは結果Bに時間的に先立ち、「AならばB」という言明によって原因と結果の関係が表現されます。私たちの生活世界では法律、政治、経済等々を含め、ほぼすべての分野で「因果性」が成り立つと認められています。動機は因果関係が物理的な出来事だけでなく、心理的な出来事にも成り立つことを端的に示しています。心身の出来事を含む神話や小説といった物語は正に因果連関を命にしていて、巧みな因果連関を編集することが映画や舞台の演出の腕の見せ所になっています。
 心と身体の時間が同じことは心身一元論や心身相互作用論からの直接的な帰結ですが、心と身体は同期、あるいはシンクロしていると考えるのが普通です。意識の内容がもつ時間と意識している時の時間は当然違っていますが、時間は心身で同じであることから、意識している時の時間は意識している身体の時間と同じことになります。生活世界では私たちの身体は時間の矢に従うので、意識状態の変化も同じように時間の矢に従うことになります。
 意識は何かの意識で、その何かは私たちが半ば勝手に編集できるものです。それが空想や妄想です。でも、それはあくまで編集することであって、一つ一つの出来事、そしてそれらの因果的な経緯は既に決まったもので、架空の物語を作成する以外では出来事の組み合わせの編集ということになります。
 今意識していることの時刻はいつも現在であり、意識した時の時間は過去の時刻であり、そこでの時間は意識内容とは無関係に生活世界の非対称的な時間が使われています。

 忘れることが増えると、記憶しているものの間の因果関係が不明になって行きます。すると、因果的な物語の構成に支障が出てきて、非対称的な歴史が場合によっては辻褄の合わないことになっていきます。忘れることによって日常的な時間の矢をスムーズに表現できなくなって行く、あるいは因果的な鎖が切れて出来事が孤立化してしまうことになります。時間の矢は数学的な世界にはないものですが、その時間の矢が物理世界に存在するなら、過去を忘れることは未来をうまく知ることができないことになりますし、未来を知ることができないと、それは過去の何かを忘れていることを意味していることになります。

私は過去を使って未来を知る
私は知識を使って未来を知る

上の二つの文は多くの人が納得するもので、知識が過去に得たものの集積であることを考えれば、いずれも知ることに関する時間の矢の存在を示しています。というのも、次の文を正しいと判断する人はまずいないからです。私たちが知ることは時間に関して非対称的なのです。

私は未来を使って過去を知る

 神は全知全能と形容されていますが、全知であれば過去、現在、そして未来のすべてのことを知っています。時間の向きに無関係に何でもわかっているのですから、神には時間の矢は存在しません。でも、私たちには歴然と時間の矢が存在し、過去と未来では知ることに関しても大きく異なっています。知ることに関して時間の矢があることを前提にして次のことを考えてみましょう。

無知の知
まだ知らないことを知っている、未来のことを知らない
忘知の知
知ったことを忘れたと知っている、過去のことを忘れる

 ソクラテスの「無知の知」を時間の矢のもとで考えるなら、まだ知らない未来の事柄があることを知っている、だから、それを探求しよう、と解することができます。「忘知の知」は聞き慣れない謂い回しですが、過去に記憶したことを忘れた、だから、それを思い出そう、と解することができます。つまり、「無知の知」は未来に向けての探求を、「忘知の知」は過去に向けての探求を時間の矢を前提に表現していると考えることができます。
 生得的な知識は過去の知識であり、それは進化の過程で忘れ去られることがしばしば起こってきました。それと似たことは個体の発達過程でも起こり、習得した知識は忘れられる危険を常に孕んでいます。人にとって、未知のことがあるのを知り、既知のことを忘れることは珍しいことではありません。人は想い出せない知があることを知り、人間的な知のあり方が忘知の知であることを知るのです。好奇心はソクラテス無知の知から出てくる心の働きの典型です。好奇心は過去にわからないものを未来に向けて解明しようとする心の特徴なのです。忘知の知は過去に知ったことが忘れられることを示しています。憶えておくべきことが忘れられるのが人間の記憶の、そして知識の本性だと考えることができます。

 次の表現は普通に使われているもので、ごく当たり前の文です。

私はXを憶えている
私はXを憶える
私はXを忘れる
私はXを忘れている

これらの表現から動作と状態の区別があることには気づくなら、「憶える」と「忘れる」、「憶えている」と「忘れている」の間にどのように違いが見出されるのでしょうか。「憶える」の反対が「忘れる」かと問われると、「憶えない」が「忘れる」だとは誰も思わないことから、反対ではないと答えるのではないでしょうか。意図的に「憶える」のと同じように、意図的に「忘れる」こともありそうです。酒や煙草は簡単に憶えられますが、忘れるのは難しいものです。また、「憶えている」状態がどのような状態なのか、「忘れている」から「思い出す」になるのはどのような変化があるからなのか、記憶と忘却、記憶と想起の間には納得のいかないことがたくさんあります。
 酒や煙草と言えば、習慣と記憶の関係は実に謎深いものです。習慣は忘れることができるのでしょうか。悪習、悪癖を忘れることはできますが、それは習慣の記憶を忘れるのではなく、行為を実行しないということです。
 記憶は薄れていく、消えて行くと言われます。消去されるのではなく、薄れていく記憶はコンピューターではどのような処理に対応するのでしょうか。その違いを強調するなら、記憶は記録ではないということになり、「記録は消去されるが、記憶は薄れていく」と表現されます。ですから、記憶は意識の中でも極めてファジーなものになります。
 記憶をコントロールできるでしょうか。何を憶え、何を忘れるか、自分で決められる場合とそうでない場合がありますが、その間の違いは曖昧でよくわかりません。何を憶えていて、何を忘れているか、自分には意識できません。つまり、憶えていることと忘れていることを意識化できないのです。意識化できないことが明瞭になっているのではなく、何かによって誰かによって気づかされることがあり、その場合は憶えているか忘れているかがわかるのです。外部の状況に大いに依存し、その刺激によって記憶の一部が明瞭にされるのです。
 時間の矢は数学的な世界にはないものですが、その時間の矢が物理世界に存在するなら、過去を忘れることは未来をうまく知ることができないことになりますし、未来を知ることができないと、過去の何かを忘れていることを意味することになります。今言えることはこの程度のことで、「知る」と「忘れる」の認識論はこれからの話となります。

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