コムラサキは花より紫色の実が主人公となるが、ナンテンも花より赤い実が人々に好まれる。冬の天候でいつも気になるのは故郷の雪模様で、子供の頃は大雪を何度も経験した。雪は確かに生活を苦しめたが、子供には天からの心躍る贈り物だった。そんな雪景色の一つが南天の実で、雪中の赤い実は私の記憶の中で今でも色褪せない。
南天の 実の鮮やかに 雪の中
さて、私の記憶の中の南天ではなく、植物のナンテンに話を転じよう。ナンテンは木本性のように見える。だが、茎が木質化しているため、そのように見えるだけで、実は常緑の草本植物である(*)。ナンテンは初夏から夏にかけて白色の花をつけ、丸い実が晩秋から初冬にかけて紅く熟す。実が白いナンテンはシロミナンテン。ナンテンは「難転(難を転じて福となす)」の語呂合わせから、縁起ものとして好まれてきた。
和名「南天」は漢名の南天竹あるいは南天燭(ナンテンチュー)が転訛したもの。南天燭の「燭」は、実が「燭(ともし火)」のように赤いことからきている。実は消炎薬や鎮咳薬として用いられ,生薬名はナンテンジツ(南天実)。
*植物を分けるとすれば、草(草本)と木(木本)。草本(herb)は一年以内に開花、結実、枯死し、茎は木化も肥大成長もしない。木本(tree)は多年にわたって開花、結実し、茎は木化し、肥大成長する。だが、草本と木本の区別は難しい。
ナンテンが木ではなく、草だと言われると不思議な気がする人が多いだろうが、常識を疑う前に、ナンテンに関する常識として、主な種類と特徴を列挙しておこう。
赤南天…実は赤色で実付きが良い。葉は紅葉を楽しめる。
白南天…実は白色や薄黄色で大きめ。赤南天と異なり、葉は常緑。
姫南天…葉が小さく実が少ないという特徴がある。生け花によく使われる。
お多福南天…葉の色が黄色から赤へと徐々に変化。樹高が低く、花壇や寄せ植えに最適。
ナンテンのこれらの種類は同時に生まれたわけではなく、自然選択、人為選択を通じて歴史的に生まれてきた。さて、私たちが植物を見る時、習慣的に草と木の違いを前提にする。その前提に慣れ過ぎているためか、どんな植物も草か木のいずれかだと思ってしまう。だが、海や川、湖や沼にも多様な植物が棲み、微生物やカビ、コケなどを考えると、植物の世界はそれ程単純ではなく、実に複雑であることに気づく。それでも、私たちの二分化思考はさらに進む。それが動物と植物の区別、仕分け。生き物は動物か植物のいずれかという区別だが、実のところ、動物でも植物でもない生物はたくさん存在する。
そこで、人は生物と無生物の区別を次に持ち出し、どんなものもそのいずれかだと考えるのだが、これも実はそれほど明瞭ではない。「生物でも無生物でもないもの、生物でも無生物でもあるもの」という矛盾したような表現が当てはまる対象は未知の宇宙探査の目的にさえなっている。
この辺まで私たちの経験世界の分類を考えてくると、「ものとこと」、「ものと概念」の違いも似たようなもので、どちらとも言えない例があるとつい思いがちである。だが、「ものとこと」の違いは世界の中の対象の間での違いではなく、世界をどのような枠組みで考えるかという時の表現する側の違いである。その違いを「個物と事件」、「個物と概念」とでも表現すれば、異なるカテゴリーの対象の比較であることがわかる。
似たような違いが「固有名と一般名」だが、これは同じ言語レベルの違いだから、「生物と無生物」に似ている。例えば、「日本」は固有名詞であり、かつ一般名詞としても使うことができる。
ナンテンからのこれまでの思弁を物質と時空という区別にまで広げてみよう。物質と時空が異なるのは当たり前だと私たちは思っている。それは現在の私たちだけでなく、遥か昔のギリシャ時代も同じだった。物質と時空が異なることを前提にする原子論はパルメニデス的な不変の哲学を維持しながら、運動変化を説明しようとする大変優れた仮説で、ギリシャ哲学の中でもっとも優れた科学理論の一つだった。
「虚空(真空)」は問題を孕む存在だが、それによって原子の運動や衝突が理解可能になり、パルメニデス哲学で否定された変化を救う重要な役割を担ってきた。原子論はその後の科学革命で再び脚光を浴び、そこから化学的原子論が生み出され、さらに物理的原子論は統計力学の中心的仮説となった。だが、原子の実在は仮説のままで、それが確証されたのは20世紀に入ってからである。この歴史的な走り書きだけでも、他の物質仮説(四元素説、質料形相論、カロリック説等々)と比べ、自然を説明する仮説として格段に優れた考えであることがわかる。
原子論は物質の不変的性質を原子のもつ性質に還元し、原子の集合である物質が連続的な時空を運動すると主張する。連続的な時間、空間は限りなく分割でき、その中を原子が運動し、互いに衝突を繰り返す。不可分の原子は一定のサイズをもつ対象だから、物質と時空では分割と結合の仕方が異なっている。「分割と結合の仕方が異なる」ことは二重基準(double standard)になっていることを意味している。だが、原子論は物質と時空に関する分割の二重基準を採用することによって、運動変化を整合的に説明する。ギリシャの原子論仮説が現在でも私たちを魅了し、私たちが納得する理由はこの点に尽きる。古典力学にも原子論の構成が強く影響している。古典力学は物質ではなく運動についての物理理論なので、二重基準の一方の「物質の有限分割可能性」は表面には出てこない。力学では物体の運動の法則と物体が運動する時空の二本立てになっており、時空に関する前提を明示的に表現すれば、「時空は連続的」となる。だが、非古典的な量子重力理論では二重基準そのものが正しくない。
現在でも物質は原子論的に有限の範囲でしか分割できないものと考えられている。ただ、どこまで分割できるかは誰にもわからず、有限分割の最後の段階は未定のまま。しかし、それが無限に続き、実数のサイズにまで至るとは誰も思っていない。というのも、それが可能なら、物質はサイズのない点にまで到達し、「サイズのない物質」という点を時空の点の場合と同じように想定しなければならなくなるからである。「サイズのない対象」は力学モデル内で「質点(point particle)」として意味をもっているが、「サイズのない物質」は力学モデル内でも意味を持たない。運動の記述に物体のサイズは不要だが、化学的性質の記述・説明に物質のサイズは不可欠である。
原子論の二重基準の内容をまとめよう。物質は有限分割可能なもので、最小の単位をもつが、時空は無限分割可能で、サイズのない点が最小となる。

