非常識な粒子と時空

 昨日の「量子の世界の非常識」では次のように述べました。

「(3)宇宙を作る単位となる粒子(「particle、粒子」は文字通りの粒ではなく、比喩的な表現)が存在し、同種の粒子は全く区別ができず、本質的に同じものなのです。つまり、私たちは粒子を識別することができないのです。
(4)古典的な原子論や科学的実在論の根幹にある「原子の素朴実在論(naive realism)」は成り立ちません。とはいえ、この素朴実在論に代わる哲学が(多くの候補が出されてはいるものの)何かはまだ誰もよくわかっていません。それゆえ、量子力学を知れば知るほど、量子力学の主張がわからなくなるのです。」

 古代の原子論には近代以降の物理学、例えば、ニュートン力学とも量子力学とも違っている重要な点があります。まず、原子論がつくられた動機、理由は物理学的な探求にあるのではなく、パルメニデスとその弟子ゼノンの形而上学的主張に対抗し、彼らの主張を論破することにありました。原子は物理学的要請からではなく、「実在は一つで不可分」というエレア派の見解に反対するための実在論的な要請として考え出されたのです。では、どのような意味でデモクリトスの「実在は複数の原子」からなり、かつ不可分なのでしょうか。デモクリトスの答えは次のいずれかです。

1 原子を分割することは物理的に不可能である。
2 原子を分割することは論理的あるいは概念的に不可能である。

1がデモクリトスの立場なら、部分に分けることが物理的に可能ではないにしても、原子の部分について語ることは無意味ではない筈です。でも、2の立場なら、原子の分割は技術的ではなく、論理的あるいは概念的に不合理なことであり、全く意味をもっていないことになります。では、デモクリトスはいずれの立場なのでしょうか。これは研究者の間でも意見が分かれているらしいのですが、2が彼の立場と考えるのが普通でしょう。デモクリトスは物理学者ではないからです。
 原子論では連続的変化を原子の異なる数を使って表現しようとします。でも、それを表現するために実数(real number)を使いませんでした。実数は当時知られていなかったからです。ですから、デモクリトスは物質だけでなく、空間も原子論的に考えたかも知れません。すると、一個の原子のサイズが原子的空間の単位であり、測定の基本単位は原子のサイズということになります。この空間では原子の半分といった概念はないことになります。すると、デモクリトスは原子が理論的に不可分でも、サイズをもっていると言うことができます。でも、このような原子化された空間ではユークリッド幾何学が成立しません。というのも、ユークリッド幾何学では空間は連続的に分割できると想定されているからです。
 たとえば、正方形を考えてみよう。各辺の長さは原子を使って測定されます。そして、ある整数が測定結果として得られます(それは原子の個数です)。では、辺の長さが1原子単位の正方形の対角線の長さはどうなるでしょうか。対角線を底辺とする二等辺三角形について、ピタゴラスの定理から、対角線の長さは2の平方根となります。これは無理数であり、原子単位では表現できず、結果として、この正方形には対角線が存在しないことになります。したがって、原子論的なユークリッド幾何学は成立しないことになります。

 物理世界で適当な長さをどんどん分割していったとしてみましょう。直に私たちは分割される区間を眼で見ることができなくなります。一体どこまで分割できるのでしょうか。際限なく分割することは可能なのでしょうか。それともどこかで分割はできなくなるのでしょうか。空間の連続性、分割性に関して現在ではどのように考えられ、それはギリシャの原子論が直面した難問に答えることができているのでしょうか。
 物理世界ではそれ以上分割できなくなる長さがあり、それが「プランクの長さ」と呼ばれてきたものです。最近の理論では、空間は無限に分割可能な連続体ではありません。空間は滑らかではなく、顆粒状で、プランクの長さが顆粒の最小のサイズとなっています。
 このプランクの長さを通過する光が要する時間は「プランク時間」と呼ばれますが、想像できる時計の最短の時間です。これら二つの考えを組み合わすと、時間と空間は構造をもっていることになります。通常、特徴のない真空として考えられてきた空間はこれらの小さな単位、つまり、量子からつくられているのです。
 空間の顆粒性のヒントはアインシュタイン一般相対性理論量子力学を統一するという試みから出てきました。相対性理論は重力の理論であり、量子力学は電磁気力、弱い相互作用強い相互作用の三つの力の働き方についての理論です。それらの統一の結果は単一の枠組であり、しばしば量子重力と呼ばれていますが、宇宙の粒子と力のすべてを説明しようとしています。さまざまな統一化の試みの中でもっとも際立つのが超紐理論(superstring theory)と呼ばれる理論で、時空は微細な構造をもっていることを強く示唆しています。
 実在は実数の連続性のように完全にスムーズでなければならないという主張がなされてきました。二点をとったとき、それらがいかに近くともそれらの間には無限の数の点があります。他方、すべてのものは還元できない単位に分割され、その単位は自然数によって表現できるようなものだという主張もなされてきました。
 19世紀の近代原子論の展開は宇宙が連続ではなく、不連続だという見方を優勢にさせました。20世紀の初頭、プランクが光さえ粒のようであることを見出したとき、さらにこの傾向は強くなります。予想外の発見から量子場の理論が生まれましたが、そこでは重力を除くすべての力が粒子によって運ばれています。科学者は重力も他の力と同じように量子的であることがわかるだろうと考えてきました。しかし、重力以外の力が時空の領域内で作用するのに対し、重力は時空そのものなのです。
 時空の顆粒性が巨視的世界で認識されなかったというのは不思議なことではありません。陽子や中性子をつくっているクオークさえプランクのスケールで存在する凹凸を感じるには大きすぎます。でも、つい最近、物理学者はクオークやその他のすべてより小さい対象からできていると考え出しました。それが「超紐」です。拡大鏡のもとでは織物の縦糸と横糸が見えるように、プランクのレベルで時空の織りは明らかになっています。最小のサイズという考えを最初にそれとなくもったのはプランク自身でした。むろん,彼はその長さの意味については確信がありませんでした。その意味探しは今でも続いているのです。