途方もない原子の数

 大きな数となれば、宇宙の星の数、地表の砂粒の数など様々。その一つが原子の数。その数が途方もなく大きいことが何を意味するか考えてみよう。
 物質は幾つの原子からできているか?アボガドロ数がその目安となる。水1モルの分子を1 列に並べるとどのくらいの長さになるのか。これがなんと光が1 週間かかって進む距離。アボガドロ数が大きいために成り立つ法則について以後考えてみよう。
1 箱の中の気体
 コインを一枚投げれば、表の出る確率が1/2、裏が出る確率が1/2。同じコインを二つ投げたら、二つとも表になる確率が1/4、二つとも裏になる確率が1/4、表と裏が一枚ずつ出る確率が1/2。だが、原子の世界では、二枚のコインが区別できないと、それぞれの確率が1/3 になったりする。それはさておき、コインの枚数を多くしたらどうなるか。
 大きな直方体の箱の中に水蒸気が1モル,つまり質量にして18グラム入っているとしよう。この箱の真ん中に仕切りを入れたら、箱の両側にはどれだけの水分子が入っているだろうか? 答えは左側に9グラム、右側に9グラム。水分子が1個しかなく、分子が勝手に運動しているとすれば、左か右に1 個あり反対側は空っぽ。分子がたくさんあってもそれぞれが勝手に運動しているなら、左に来る確率も右に来る確率も1/2なのでコイン投げと同じ状況になる。左側にも右側にも1/2モルの分子がはいり、その誤差はせいぜい10の12乗、つまり1 兆個くらいである。これは莫大な数でも、1/2モルからの相対誤差は1兆分の1に過ぎない。マイクログラムのさらに一万分の一だから、普通の測定手段では測れない誤差。物理の測定装置でこれ以上の精度を出すのは難しい。
2 原子論の恩恵
 前の話は、水蒸気が分子からできていることが前提。連続的に見える物質が、実は離散的なものの集まりだということが議論の前提となっている。ファインマンは「…最小の語数で最大の情報を与えるのはどんなことか。私の考えでは,それは原子仮説だろうと思う。」と述べている。原子論はギリシア時代に考え出された見事な仮説。だが、現在の原子論が確立するのは近代になってからである。物理学史の一部を確認しておこう。

1662 ボイルの法則
1787 シャルルの法則(1802: ゲイ-リュサックの法則)
1803 ドルトンの原子説
1811 アヴォガドロの分子仮説
1827  ブラウン運動の発見
1843 ジュールが熱の仕事当量を測定
1847  ヘルムホルツによりエネルギー保存の法則(熱力学の第1法則)が確立
1848 トムソンが絶対温度絶対零度の提唱
1850 クラウジウスが熱力学の第2法則を定式化
1860 マクスウェルの気体分子運動論
1877  エントロピーに関するボルツマンの原理
1902 ギブスが統計力学のアンサンブル理論を定式化
1905  アインシュタインブラウン運動理論、ネルンストが熱力学の第3 法則を発見
1908 ペランがアインシュタイン理論を検証

3 力学モデルと確率モデル
 私たちは水蒸気中の分子の運動の姿をほとんど何も知らないのに、箱の中の分子数をかなり正確に予言できる。水が膨大な数の同じ種類の小さな粒子からなり、気体中ではそれが自由に飛び回っているという、原子論的な知識が使われている。コイン投げの問題も分子数の問題も、私たちは「無知」であることを積極的に利用している。コイン投げの運動は力学モデルによって正確に計算できるはずだが、表裏を思い通りに出すほど正確には投げ方をコントロールできない。だが、個々のコイン投げの表裏の結果がわからなくても、何度も投げたときの表裏の割合は確率モデルによって正確に推測できる。数が多いほど正確になり、個々のコインが表か裏かは問題になっていない。個々の分子が今どこにあるかはわからなくても、左右の箱に分子が分配される割合は正確にわかる。
 分子数の場合では,正確に予想できるのは,例えば「左の箱に何パーセントの分子があるか」といった巨視的な情報に対応するものである。箱を2等分したときの分子数の配分が50パーセントずつの場合と10パーセントに90パーセントの場合では、個々の分子がどちら側にいるかを区別して数えたときの原子レベルの微視的な状態の数(数学で「場合の数」と呼んだもの)が、まったく違っている。その結果、半分が左側にいるということが確定的な情報となる。つまり、われわれが普通必要とする巨視的な情報は、微視的な状態についての情報をまったく問題にしていないのである。10パーセント以下の分子しか片側にない可能性はまったくゼロと言ってよい(「無限小」は数学のゼロとは違う物理のゼロ)。最初に見たようなマクロな系の分子数の膨大さによって、「個々の分子がどちらにいるかわからないから、同じだと思いましょう」という、いい加減な仮定に基づく予言が確定的なものになるのである。
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補足:場合の数とエントロピー
 ひとつの巨視的な状態(たとえば仕切りのある箱の左側半分と右側半分に等量の空気が入っている状態とかコインを大量に投げたときその半分が表にある状態といった)にどれだけの微視的な状態が対応しているか(コインの表裏で言えば場合の数))が重要だと言うことに最初に気づいたのはボルツマン。この「場合の数」にあたるものの対数がエントロピー。ボルツマンはこのエントロピーの考え方を使って、統計力学という微視的な世界と巨視的な世界の関係をつける方法を考え出した。コイン投げの場合の数は簡単に数えられるが、気体が半分ずつ入っている状態の場合の数をどう数えるかは難問。ボルツマンが統計力学を作ったのは19世紀末で、20世紀に入り量子力学が初めてこの問題の正しい解決を与えた。
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 多数の原子がある世界について、個々の原子についての「無知」を積極的に利用して、マクロな日常世界について確定的な予言ができる。「気体の体積を半分にすればその中の物質の量は半分になる」というような主張をする熱力学、「分子が勝手に運動していればそうなる確率が圧倒的に大きい」というような主張をする統計力学。熱力学や統計力学によって、不思議で有用な主張が可能になる。私たちの身の回りの物質の性質は、その物質を構成する原子や分子の種類を知れば、統計力学によってほとんど予言できてしまう。実際、物性物理学は量子力学統計力学を使って物質の性質を解明してきた。