私が湾岸地域に引っ越し、既に10年を越えた。近くに夢の島があり、今では緑あふれる公園に変わっていて、ごみの島からの大きな変貌である。ごみが見事な森林に変わるには莫大な資金と労力が必要で、自然に変わるわけでは決してない。だが、ごみをたくさん出す私たちの生活は変わらず、ごみは増え続けている。
私が小学校に入学した頃に戻ってみると、生活から出るごみは皆無に近かった。実際、1955年頃までの妙高の生活を思い出してみれば、それが正しいことがよくわかる。ビニールの類は一切なく、当然ながらペットボトルもビールや飲料の缶もなかった。酒瓶や醤油瓶はあったが、それらは回収され、再使用されていた。包装紙も日常の買い物には使われず、せいぜい古新聞紙が使われる程度だった。肉、魚、豆腐がパックに入っている今とは違って、経木や鍋が使われていた。
どの家の裏庭にも生ごみを捨てる場所(ごみ捨て場)があり、そこに残飯などが捨てられ、最終的に堆肥の原料になっていた。毎日の残飯は少なく、あっても大抵は飼われているブタやニワトリの餌になっていた。そのため、当然ながらごみの収集車などなかった。実際、ごみは出なかったのだから、収集車など必要なかったのである。
現在の私たちの生活はごみだらけの生活である。ごみを生み出し、ごみに囲まれ、ごみの中で生活するのが私たちである。必要悪としてのごみと言われるが、単なる悪なのだと言い切れないのが今の私たちの生活である。Co2を含めて、ごみを生み出すことが経済発展だとすれば、それは実に悲しい発展であると嘆きたくなるのだが…
植物や動物が生息することによってごみは生み出されるのだろうか。確かに排出物はあるが、汗もし尿もごみではない。ごみとは実に文化的なもので、人の社会生活と共にごみが生まれたとみるのがいいのだろう。貝塚は夢の島と同じくごみの山だった。ごみの増加は経済的活動や文化の隆盛に比例している。ごみは社会発展の指標になってきた。すると、私の子供時代のごみなし生活は生活程度が現在のそれに比べ、著しく劣っていたということになる。ごみの有無はマナーや倫理の問題ではなく、経済成長の有無でしかないということになる。
だが、この理屈に得心したくない。というのも、この理屈を認めることは文化も経済もごみを生み出すものだということを認めることだからである。社会、経済、文化がごみを産むための制度や装置だということになれば、人の努力はごみのためということになりかねない。誰もごみのために考え、働き、頑張るとは決して思わない。
エネルギーをつくると熱がごみとして出る。電気を使えば熱になる。熱がごみなら、ごみのために地球温暖化が進んでいることになる。エネルギーをつくるのは経済活動を推進し、文化的生活を維持するためである。だから、経済、文化が地球温暖化を進めているのは正しく、温暖化の直接の要因はごみなのである。
このような乱暴で、粗雑な議論に真剣に付き合う必要はないのかもしれない。だが、子供時代の故郷のごみゼロの生活が何を教えてくれるのか、私たちの現在の生活を考え直す契機になるのは確かではないだろうか。それが故郷の大切な存在理由なのだろう。
そこで、ごみと熱の関係をきちんと考えてみよう。今の私たちの生活は多くのごみを生み出していると述べた。夕食を一回つくると出るごみの量は信じられないほどである。その中には利用できるごみがたくさんある。食べ物だけでなく、包装していた紙やビニールも再利用できる。その意味では「見かけのごみ、偽物のごみ」に過ぎないのである。どうしても使うことができず、本当の意味で捨てざるを得ないものがあるとすれば、それが「本物のごみ」。本物のごみは煮ても焼いても食えないもの。だが、本物のごみはそもそもあるのだろうか。生態系が循環系であることは本物のごみはなく、すべては循環するサイクルの構成要素として系の維持に役立っていることを示している。これを生態学的ごみと呼んでもいいだろう。生態学的ごみは偽物のごみ、現象的にごみに見えているに過ぎないもので、いずれ再利用されるものである。では、本物のごみとは?本物のごみは熱力学的ごみで、エントロピーが最大になった系の状態、それが本物のごみである。それはどのように工夫しても再利用ができないものである。エネルギーは色々な形態をとる。なぜ私たちは電気を重宝するのか。それは電気エネルギーを他の形態のエネルギーに変えることによって多様な仕事ができるからである。電気は高品質のエネルギーで、様々に利用可能なのだ。それに対して、熱は低品質のエネルギーで、仕事をした後のエネルギーの形態が熱。私たちも身体を激しく動かし運動すると、熱が発生し、発する。熱を再利用することはもちろんできるが、そのためには再利用するエネルギー以上のエネルギーを必要とする。つまり、結果としてますます熱が発生する。自然を利用して仕事をした最終結果が熱の発生であり、それが地球規模の温暖化を引き起こしているということになる。文明とは品質の良いエネルギーを利用して自然を人間に都合のよいものに変え、その結果として本物のごみ、つまり熱を出すものなのである。「熱を熱でないエネルギーに変え、しかも、その際に更なる熱を出さないようにする」というような機関は永久機関と呼ばれるが、それは熱力学的には存在できない。
このように考えてくると、偽物のごみが再利用されても、つまるところは熱という本物のごみになり、それが蓄積されていく、それが私たちの文明の特徴ということになる。この結論に対して「文明の正体見たり枯れ尾花」などと茶化し、嘆くだけではなく、現実の世界に熱力学の主張がどれだけ正しく適用できるかを含め、文明の本性をさらに理解し、それを肝に銘じて生きることに徹するしかないだろう。