自給自足や地産地消から妄想してみると…

 「地産地消」は地元で採れた産物を地元で消費することであり、「自給自足」は必要とするものを自分で生産してまかなうことだというのが一応の定義。字面から二つは違うと人は言うのだが…個人、集団のいずれであれ、自給自足すれば、それは地産地消である。だが、ある産物について地産地消でも、別の産物がそうでなければ、自給自足ではない。個人、集団のいずれであれ、自給自足なら地産地消であるが、ある産物が地産地消でも別の産物がそうでなければ、自給自足ではない。これが自給自足と地産地消の論理的関係。

 では、この二つは実際の社会でどのような関係にあるのか。日本の食糧自給率は低く、これを高めるための運動の一環として地域の農家や農協、自治体などが提唱しているのが地産地消。この地産地消は「地域生産地域消費」の略で、地域で生産し、その地域で消費をするという意味である。地産地消は地域ぐるみの自給自足と言えないことはない。食料の交換を主な目的にしたのがかつての「市」だった。特定の日に定期的に開かれる市は物々交換から始まった。物々交換は地産地消の典型例。

 食料はできるだけ国内で生産し、工業製品はできるだけ輸出しようというのは実に虫のいい話で、輸出の相手国が同じように地産地消を目指したならば、日本は窮地に陥ること必定。だが、地産地消を目指したくてもできないのが現実で、それゆえ、国の間に格差が生じ、私たちは富を手に入れてきたのである。

 人は一人では生きていけない。人は互いに助け合わなければならない。そのための家族であり、共同体である。つまり、一人だけで自給自足の生活はほぼ不可能。だが、共同体で分業しながら地産地消の生活をすることは十分に可能で、実例も多い。一人なら自給自足、複数なら地産地消ということで、前者は不可能でも後者は可能という訳である。集団と分業のカラクリがここにあり、経済の基本となっている。だが、生産と消費のカラクリはもっと複雑で、その精妙な仕組みが富の格差を生み出し、資本主義の自由経済の下では格差が増大すると言われている。

 地産地消を推進するなら、生産品だけではなく、それを生産する際に出たごみも地域で消費しなければならない。生産に伴うごみは産業廃棄物、排煙、熱等で、それらもすべて生産地域で処理されるべきだが、それがまるでできていないのが現在の世界。先進国はかつてごみを垂れ流したままだったし、急速に工業化を進めている中国、インド、ブラジル等も自ら積極的にごみを処理しようとはしていない。地産地消の真の実現は、実はとても困難なのである。これは自給自足の場合も同様。自ら生きる糧を生むだけでなく、生む際に出るごみの始末も自らしなければならない。これでは自給自足も地産地消も実現がとても難しいことになる。

 これが意味するのは、生きることは自己完結できず、負の遺産を生み出し続けるということである。したがって、生きることはいずれ破たんすることになる。つまり、生きることは持続不可能なのである。これは、生命が地上に誕生し、進化してきたことが何であったのかを改めて問い直すことになる。生命の誕生と進化はいずれ無に帰すことだとなれば、なぜ生命が生まれたのか。

 こんな大きな謎が残るとすれば、この議論自体がどこかで誤っていたのかも知れない。もし正しいとすれば、私たちに突きつけられているのは、「存在すること」、「生きること」はそれだけで罪なのかという問いでもある。

*読者にはこれらの問いが妄想に過ぎないことを示してみてほしい。