Circular Economy、自給自足、地産地消はどこが違う?

 サーキュラーエコノミーは文字通り「循環型経済」。これまでの資源循環の効率化だけでなく、循環を広げ、既存の製品や有休資産の活用などを図る経済システム。持続可能な経済成長が期待される中、EUではサーキュラー・エコノミーの実現を経済成長戦略の一つとして、2015年欧州委員会がサーキュラー・エコノミーの実現に向けた新たな戦略「サーキュラー・エコノミー・パッケージ」を採択。そこでは、
・2030年までに加盟国各自治体の廃棄物の65%をリサイクル
・2030年までに包装廃棄物の75%をリサイクル
・2030年までにすべての埋め立て廃棄量を最大10%削減
という数値目標が掲げられ、これまでのビジネスモデルの変換が目指されている。要は、ごみの再利用によって、資源とごみの循環を目指すのがサーキュラーエコノミー。
 このような報告を聞くと、思い浮かぶのは一時盛んに登場した「地産地消」、そして「自給自足」。「地産地消」は地元で採れた産物を地元で消費することであり、「自給自足」は必要とするものを自分で生産してまかなうことだと定義されている。字面からこれら三つは違うと普通の人は言うのだが…
 では、これら三つの概念はどのような関係にあるのか?日本の食糧自給率は低く、これを高めるための運動の一環として地域の農家や農協、自治体などが提唱しているのが地産地消。この地産地消は「地域生産地域消費」の略で、地域で生産し、その地域で消費するといった意味で、地産地消は地域ぐるみの自給自足と言えないことはない。
 食料の交換を主な目的にしたのがかつての「市」だった。特定の日に定期的に開かれる市は物々交換から始まった。物々交換は地産地消の典型例だが、現在の市場は物々交換ではない。食料はできるだけ国内で生産し、工業製品はできるだけ輸出しようというのは実に虫のいい話で、輸出の相手国が同じように地産地消を目指したならば、日本は窮地に陥ること必定である。だが、地産地消を目指したくてもできないのが現実である。それゆえ、国の間に格差が生じ、私たちは富を手に入れてきたのである。
 人は一人では生きていけず、互いに助け合わなければならない。そのための家族であり、共同体である。つまり、一人だけで自給自足の生活はできない。身体的な維持だけでなく、精神的な維持をも考えると、たった一人での自給自足生活は不可能。では、なぜ地産地消は可能なのか。共同体で分業しながら地産地消の生活をすることは十分に可能で、実例も多い。一人ではできないが、複数なら可能ということ。一人なら自給自足、複数なら地産地消で、前者は不可能でも後者は可能という訳である。集団と分業のカラクリがここにあり、経済の根本となっている。だが、生産と消費のカラクリはもっと複雑で、その精妙な仕組みが富の格差を生み出し、自由経済の下では格差が増大すると言われている。
 地産地消を推進するなら、生産品だけではなく、それを生産する際に出たごみも地域で消費しなければならない。生産に伴うごみは産業廃棄物、排煙、熱等で、それらもすべて生産地域で処理されなければならないが、それがまるでできていないのが現在の世界。先進国はかつてごみを垂れ流したままだったし、急速に工業化を進めている中国、インド、ブラジル等も自ら積極的にごみを処理しようとはしていない。地産地消の真の実現は、実はとても困難なのである。自ら生きる糧を生むだけでなく、生む際に出るごみの始末も自らしなければならない。これでは自給自足も地産地消も実現がとても難しいことになる。そこで登場したのがサーキュラーエコノミー。だが、その適用範囲をどのように決めるかにその効果は大きく依存する。
 これが何を意味するか、少々誇張して言えば、生きることは自己完結できず、負の遺産を生み出し続けるということ。したがって、生きることは、いずれ破たんする。つまり、生きることは持続不可能なのである。サーキュラーエコノミーがこれに抵抗しても、ごみを無くすのはほぼ不可能。これは、生命が地上に誕生し、進化してきたことが何であったのかを改めて問い直すことになる。生命の誕生と進化はいずれ無に帰すことだとなれば、なぜ生命が生まれたのか?
 こんな大きな謎が残るとすれば、この議論自体がどこかで誤っていたのかも知れない。例えば、自給自足、地産地消、サーキュラーエコノミーのどれも「ほぼ、およそ」の事柄である。というのも、「完全な自給自足」などあり得ないからである。それでも、もしほぼ正しいとすれば、私たちに突きつけられているのは、「あること」、「生きること」はそれだけで罪なのかという問いであり、答えは(「ほぼ、およそ」があることによって)自然がどこまで寛容なのかに依存することになる。