主な国学者たち

 江戸期から明治期にかけて関心を集めた国学は、日本の古典を研究し、儒教や仏教の影響が及ぶ前の日本独自の心や文化を見出すことを目的にして、儒教の「四書五経」や仏教の経典の研究を批判することによって生まれました。江戸期の国学者は全国に二千人程いたようですが、明治政府の欧化政策によって抑圧され、その後は思想教育に利用されました。

 日本の古典を材料、根拠にして日本独自の文化を国学として大成したのが本居宣長。ですから、国学の内容は日本の歴史や和歌などの研究が中心で、宣長国学の入門書『うひ山ぶみ』で国学の学問の内容を四分し、「神学」は日本古来の神道を学び、「有識の学」は律令や儀式を学び、「記録」は日本の歴史を学び、「歌学」は歌を中心とした古典文学を学ぶこととしました。

 さて、国学創始者契沖は真言宗の僧であり、古典学者でした。契沖は『万葉集』、『古今集』、『伊勢物語』などの和歌を研究をしました。彼は『和字正濫鈔(しょうらんしょう)』を著し、歴史的仮名遣いを提唱し、実証的古典研究の方法を確立して、国学の基礎をつくりました。

 荷田春満は、江戸時代中期の歌人国学者です。春満は契沖の『万葉代匠記』などを学び、古典や国史の研究を深め、「復古神道」を提唱しました。復古神道儒教や仏教の影響を受ける以前の日本民族固有の信仰を重視する思想で、「古道論」や「古道学」とも呼ばれます。江戸に出た春満が国学の教場を開いたのが神田神社の境内で、ここが国学発祥の地とされています。

 春満の弟子の賀茂真淵は、江戸時代中期の歌人で、国学者。真淵は儒教的な思想を排除し、日本人本来の心が表現された『万葉集』の研究に生涯を捧げました。真淵は古語に古代人の心が表れているとして、『万葉集』に古代の心を見出したのです。真淵は『万葉集』の研究から、日本人の素朴な心情を男性的で大らかなものと考え、それを「ますらをぶり」と表現しました。それは『古今和歌集』に代表される平安時代から続いた女性的でやさしい歌風の「たをやめぶり」の反対であり、男性的な心持ちを表しています。

 本居宣長は江戸時代後期の医師、国学者です。宣長は契沖の文献考証と真淵の古道学の研究を深め、国学を大成しました。また、彼は35年の年月を費やして『古事記』を翻訳、研究し、全44巻からなる注釈書『古事記伝』を著しました。この研究成果によって『古事記』の価値が評価され、現在でも古事記研究には不可欠の書となっています。また、宣長平安時代の文学で表現された「たをやめぶり」を重視しました。

 平田篤胤は、江戸時代後期の医師、そして国学者神道家。復古神道古道学)の大成者であり、平田神道と呼ばれる尊王復古を主張する思想は、幕末から明治維新の活動家に多大な影響を与えました。でも、その革新的な思想は幕府から危険視され、江戸から追放されます。