松山高吉:神道からキリスト教へ

 昨日松山高吉を通じて神道について述べました。その松山は越後糸魚川で弘化3(1847)年松山良輔の男として生れます。松山家は代々糸魚川藩の政治に参与し、漢学、国学、詩文などで世に知られていました。高吉も子供の頃から漢学、国学を修め、和歌を詠み、やがて、賀茂真淵本居宣長らの著作に関心を持つようになります。その後、平田篤胤の門に入り、その子鉄胤に師事し、篤胤の国学を研究し、明治2年には京都に上り、白川家学館で国史並びに律令格式等を研究しました。同年11月白川千代麿とともに京都から東京に行き、専ら国学を学び、傍ら伊能顕則によって和漢の史伝を研究します。

 その松山がキリスト教に入信する動機は、神戸で宣教師グリーンの感化を受けたことにあるのですが、グリーンに近づいた動機はキリスト教邪教と考え、それを探るためでした。明治5年、神道を信じる松山はキリスト教の国害を憂い、それを防ぐためには、先ずキリスト教を知らねばならないと考えたのです。松山が27歳のときでした。松山はグリーンと親しく交わり、キリスト教について学ぶにつれ、その真理を知るに至り、遂にキリスト教を信じるようになります。そして、明治7年グリーンより洗礼を受けるのです。