神道という文化の中の霊魂

 僧から法話を聞いた記憶はあっても、神職から神話(?)を聞いた記憶はない。子供のための神道など誰も教えてくれず、そのためか子供の頃の私には神社は寺のような親近感がまるでなかった。神道には開祖がおらず、教義もなく、それゆえ、魂の救済すらないとよく聞く。教義のない原始宗教は珍しくないが、それが日本ではずっと続いてきた。それが不思議なことなのである。それを逆手にとって、明治政府は神道を法律的には宗教ではなく、文化の一つと見做し、国民を統合し、国体を保持しようとしてきた。「神道指令」や天皇人間宣言によって国家神道は解体されたが、神社本庁を中心に国家神道は「神社神道」として、国家神道の倫理、道徳は「神社神道」の「文化」として再生されている。

 『日本書紀』や『続日本紀』には神社創建の記録がない。岩の上で祭祀を行っていた跡や、山そのものが信仰の対象となっていたようで、沖ノ島は島全体が宗教上重要な場所であったらしいが、そこでも祭祀は巨大な石の上で行われていた。日本創世の逸話も、天地は最初から存在していて、そこに後から神々が生まれてくるため、世界創造の説明がない。世界を創造するのが神ではないため、それこそ八百万の神が存在することになり、死んだ人がそのまま神となることができる。
 神道と仏教は、それぞれ生の領域と死の領域という役割分担をして共存してきた。仏教には若者が惹かれる知識が溢れるほどにあったのに対し、神道には民俗学的な関心しか生まないような古い習慣しかなかった。若者の好奇心を惹きつけるものは神道にはなく、仏教のもつ知的魅力はずば抜けていた。ここに神道が無教義のまま存続してきた理由の一つがありそうである。江戸時代にようやく本居宣長平田篤胤国学が若者の心を捉える。

 日本で一番多い神社は「八幡神社」だが、これは奈良の大仏が建立されたときに歴史に現れ、「大仏を守護する神」だった。天満宮の神は菅原道真だが、彼は藤原氏に左遷されて失意のうちに死んだ人。その怨霊が祟りを起こすとして祀られ、神となった。その後も、豊臣秀吉が豊国神社、徳川家康東照大権現明治天皇明治神宮、乃木や東郷までもが神になるなど、特に近代以後広がり続けた。これは神道の「霊魂」概念が曖昧で、いい加減だったことを見事に物語ってくれる。その際立った例が護国神社(ごこくじんじゃ)で、国のために殉難した人の霊魂(英霊)を祀る神社。神社には本社と分社の関係にあるものが少なくない。例えば、「稲荷神社」の本社は京都の「伏見稲荷大社」。全国の護国神社で祀られている神の多くが靖国神社にも合祀されているため、靖国神社は全国の護国神社の本社と思われがちだが、護国神社靖国神社の分社ではない。とはいえ、靖国神社護国神社は御祭神を同じくする神社。いずれにしろ、祖先の霊を祀る民俗神道から英霊を祀る神社神道までの拡がりは「霊魂」概念が神道では整備されないままであることを白状している。