国学と神道:折口信夫の場合

 折口信夫にとって国学は単なる学問ではなく、むしろ倫理、道徳である。国学賀茂真淵本居宣長と続き、平田篤胤によって完成されたが、最初から倫理や道徳を目指していた訳ではない。学問としての国学を倫理や道徳に移行させたのは平田篤胤である。それゆえ、折口は国学を学ぶには平田篤胤国学が不可欠だと考えていた。

 平田篤胤の道徳的な国学尊王攘夷論に見られるような過激な傾向をもっていた。そのため、幕末に国学の影響が広がると、過激主義者が増えていく。そして、平田国学の強い影響のために、幕末から明治初期にかけて廃仏毀釈運動が起こる。平田自身は仏教や儒教から何も学ばなかったわけではなく、自分の研究にそれらを積極的に取り入れた。篤胤は仏教、儒教を十分学んだ上で、彼らを批判している。篤胤の好奇心は、仏教や儒教だけでなく、洋学にも及んでいる。そんな篤胤の国学が過激思想として人々を駆り立てたのは、その道徳的性格にあった。

 さて、折口に戻るが、彼は釈迢空として生涯和歌を詠み続けた。最初の仕事は『口訳万葉集』。万葉集の歌を一首ずつ、丁寧に口語訳していく。画期的だったのは、万葉集原文を読み下した表記に句読点を付した点で、歌人釈迢空の和歌にも句読点をもつ作品がある。折口は外の異人が共同体に到来したと考え、高天原より出雲の神々に共感する。昭和16年「大君は 神といまして、神ながら思ほしなげくことの かしこさ」と詠み、人でありながら神の代役を演じなければならぬ人間天皇の重い苦しみを思っている。戦後の折口は「神道の宗教化」を目指し、靖国神社に代表される国家神道は間違っていて、正しい神道を再生しようとした。

 折口と柳田国男は互いに手を携えて新しい国学の完成を目指した。だが、二人は好対照で、例えば折口の講義は題目が同じでも、いつも新しい話だった。一方、柳田は綺麗な原稿を書いてきて、それを繰りながら講義した。柳田は日本では「泣くこと」が重視されると捉え、そこに先祖からのイエが持続していると見た。折口は日本人の歌や物語に「たおやめぶり」があることを誇り、その「めめしさ」にこそ生命の輝きが認められると主張した。

 日本軍の戦意高揚には本居宣長の「やまと心」や平田篤胤の「やまと魂」が使われた。そして、当然の如く国学は「ますらをぶり」を賛美していると考えられてきた。だが、宣長国学は多重思考的で、決して単純ではない。それは日本独自の「擬」(もどき)の思想ともいう構造をもち、宣長は「もののあはれ」を説き、「風雅」を重視した。現在を「あはれ」と「思ひやり」によって過去につなげるには、多重的な「擬」が必要だと宣長は考えた。そして、宣長は人間の本性を「めめし」(女々し)と捉えたのである。「めめし」とは弱々しいということで、「ををし」(雄々し)の反対であり、歌論でいえば「ますらをぶり」に対するに「たおやめぶり」である。

 宣長や折口からすれば、天皇の存在自身が「弱さ」を示すものだった。天皇こそが本質的に何かを「譲る」ための弱々しい存在の象徴だった。宣長も折口も、そうあるべきだと考えていた。宣長は『古事記』の「国譲り」を解釈して、この世界には高天原型の「あらはれごと(顕事)」と、出雲型の「かくりごと(幽事)」があって、その二つで成り立っていると捉えた。アマテラスが顕事を、オオクニヌシが幽事をつかさどったと見て、この相互関係のなかに「日本」の姿を見たのである。そして、そのように世界が「見える世」と「見えない世」に分かれたのは、アマテラス(=天皇)が天下を統治するようになり、オオクニヌシは「幽界」に隠れたからだと篤胤は解釈した。アマテラス系の天皇が天下を統治したので、オオクニヌシを筆頭とする国津神は「幽界」に行ったと篤胤は考えた(『霊能真柱』)。彼は幽界は人間の死後の霊魂が集まるところで、天皇が見渡すことができない善悪の判断を見極めているところだと解釈した。篤胤は現世が「寓(かり)ノ世」で、幽界こそが「本(もと)ツ世」であると考えていた。

 だが、明治に入ると、この世界二元論はアマテラス一元論に変わり、万世一系の臣民国家が強調され、ついにはオオクニヌシは除外されてしまう。


天皇は現神(アキツカミ)だが、現人神(アラヒトカミ)ではないと折口は考えた。天皇の力は神から一時的に付与されたというのが折口の天皇非即神論。折口は天皇即神論は明治以降の捏造と考えた。折口は神社神道に批判的で、天皇は寂しく、わびしく、つらい生活に堪える人だった。

**「釈迢空」の名を見て、私などは「釈迦の空思想」などと連想してしまうのだが、「迢空」は浄土真宗の僧侶藤無染の愛称、また「釈」は室生寺で自殺を図った釈契沖が想起される。折口の葬儀は神式だったが、法事は浄土真宗願泉寺で行われた。