生田万(よろず)や松山高吉(たかよし)を魅了した平田国学

 生田万は享和元(1801)年、館林藩藩士の家に生まれる。藩校で儒学を学び、24歳で平田篤胤に入門し、国学を学ぶ。生田は碧川好尚とならぶ篤胤の二大高弟として平田塾の塾頭を務めた。生田は天保7(1836)年に越後の柏崎へ移り、桜園塾を開き、国学を教える。天保の大飢饉が起こり、天保8(1837)年2月に大塩平八郎の乱が起き、これに呼応する一揆武装蜂起が各地で起こった。生田もまた、飢饉で苦しむ民衆を前に、同年6月に数名の同志を集めて「奉天命誅国賊」の旗を掲げて蜂起、柏崎陣屋を襲撃した。乱は不成功に終わり、彼は負傷して自刃した(柏崎小学校の脇に墓碑がある)。

 松山高吉は越後糸魚川で生田万自決の10年後の弘化3(1847)年に生れる。松山家は代々糸魚川藩の政治に参与し、松山も子供の頃から漢学、国学を修め、和歌を詠み、やがて、賀茂真淵本居宣長らの著作に関心を持つ。その後、平田篤胤の門に入り、その子銕胤に師事し、篤胤の国学を研究した。その松山がキリスト教に入信する動機は、神戸で宣教師グリーンの感化を受けたことにある。彼がグリーンに近づいた動機はキリスト教邪教と考え、それを探るためだった。これが松山27歳のとき。松山はキリスト教について学ぶにつれ、遂にキリスト教を信じるようになり、明治7年グリーンより洗礼を受ける。

 若き生田も松山も平田国学に心酔した。平田篤胤(1776-1843)の国学の真髄はその著作『霊能真柱(たまのみはしら)』に表現されている。国学を大成した本居宣長は日本の古典学を切り開いた学者として有名だが、宣長の影響を受けて国学者となり、多くの門人を輩出した平田篤胤はさほど語られない。宣長が『古事記』の詳細な注釈書として『古事記伝』を著したことは広く知られているが、篤胤の「復古神道」が尊王攘夷運動を支えた事実は記される程度で、その思想の内容や著作の紹介は少ない。宣長と篤胤の国学思想は、明治以降の大日本帝国体制を正当化するイデオロギーとして用いられ、特に戦前の「日本精神」を支えるものとして利用された。戦後の篤胤批判は当然のことで、例えば和辻哲郎の『日本倫理思想史』(1952)。和辻は篤胤が古典の注釈を越えて、死後の世界や神話的な宇宙生成論を論じたことを厳しく批判した。

 1970年代に入り、篤胤に関する再評価の動きが始まる。篤胤の『霊能真柱』は国学思想の精髄を簡潔に語っている。宣長は日本に伝わる神々を忠実に記した原典が『古事記』だと同定し、その言葉の厳密な解釈作業に徹した。それに対して篤胤は、『古事記』だけでなく、和漢の様々な古典から取捨選択して、古伝説を再構成する。儒学道教、仏教、洋学の原典からも古伝説の断片をかき集め、天地創造の神話をつくりだす。『古事記』の本文は既に天と地が成立している状態から物語が始まる。篤胤の『霊能真柱』は『三大考』に独自の見解を加え、語り直す。彼は洋学による知見も加えて補強する。篤胤によれば、西洋人は航海術を発達させた結果、この大地と海に関する知識を発展させた。その結果、地球が球体であり、「虚空<おおぞら>」に浮かんでいるという天文学の理論ができた。『三大考』に見える天地の生成の過程は、そうした最新の知識にも符合すると彼は述べる。また、篤胤は創造神すなわち「天神<あまつかみ>」が天地を創造し、アダムとエバを造ったという旧約聖書の物語と、イザナキ(ギ)、イザナミの物語との類似を指摘する。この記述から、世界を創造する超越的な存在と、そこからの被造物という構図に対する篤胤の関心の高さが垣間見られる。

 天地のはじまりとともに、『霊能真柱』の重要な主題は「自分が死んだ後はどうなるのか」という魂についての問いだった。世界の生成の過程を詳しく論じるのは、死後の魂が行く「幽冥」の世界を捉える目的もあった。篤胤はこの「幽冥」の世界の考察で独自の思想を展開する。『日本書紀』の記述を参照しながら、彼はこの死後の世界を治めるのが大国主神であるとした。キリスト教の影響からか、大国主神による死後の審判という解釈も出される。仏教の閻魔大王の伝説などもあり、篤胤の「幽冥」の世界は様々な神話、宗教が混淆されている。