習合、混淆、あるいはSyncretism

 宗教、哲学、倫理など、かつては習合した形態で扱われ、それは洋の東西を問わず似たようなものだった。神や仏が習合していただけでなく、知識や倫理も混淆していた。アリストテレスの哲学とキリスト教を習合したのがカトリック神学であり、宗教と学問、あるいは知識と信念(信仰)が混淆されることは過去には当たり前のものだった。これは日本でも他の国々と似ていて、儒教神道、仏教の混淆は漢学、国学、洋学の区別として分離していく。このような離合集散の繰り返しがあちこちで起こってきた。その一例として、糸魚川出身で、同志社大学の設立、聖書の翻訳に力を尽くした松山高吉を見てみよう。

 松山高吉は1847年に、越後の糸魚川に生まれた。松山家は代々の名家であり、高吉もまた、幼少の頃より漢学や和歌に親しみ、国学平田篤胤門)を本格的に学んだ。では、漢学、洋学と対比される国学とは何か。国学は「失われた神道」の復活をめざす学問で、日本古来の神道の復活を提唱する運動でもあった。これが「復古神道」で、その教義をつくるための研究が国学である。国学は古代日本に儒教や仏教が伝来し、日本人はその思想に毒され、本来もっていた精神を見失ったと考え、失われた神道を復古すべきと主張する。仏教や儒教の伝来から江戸時代までの長い間、本地垂迹説によって神道は仏教の支配下におかれてきた。その上、江戸時代に神道儒教と結びつき、儒家神道が登場する。国学者たちは儒教や仏教による支配からの脱却と独立を目指し、回復すべき日本精神の象徴として持ち出したのが、『古事記』や『日本書紀』の神話世界の統括者である天照大御神(アマテラス)だった。そして、それを学問的に大成したのが本居宣長

 松山が学んだ平田鐵胤は宣長、そして平田篤胤の後継者である。篤胤は、儒教や仏教以前の日本に天皇を中心とする神道国家が確かに存在したこと、そして神国日本が世界の盟主たり得る優越性をもっていることを示そうとした。そして、そのために篤胤は和漢の諸学問だけでなく、キリスト教までも研究。篤胤は大国主大神最後の審判者)が世界各地に伝播して、天帝や梵天といった創造主になったと説く。それらは、古代の神道にあったもので、それが世界中に伝播した、というのが平田神学の主張。宣長は日本の神話がもっとも真正であると述べるが、篤胤はそもそもすべての事柄の起源は日本にあると主張する。篤胤にとっては世界創造は日本の古神道に起因するものだった。

 このような篤胤の主張は「多神教神道」と「一神教キリスト教」の間を一挙に縮めてしまう。篤胤によれば、日本神話の初発の神が宇宙を支配し、それゆえ日本こそが世界の起源となる。それゆえ、篤胤にとっては神道キリスト教の差異は見かけのものに過ぎない。松山高吉はその平田国学を修めている。松山によれば、古代において人々が崇拝した神は唯一天地の主宰者たる創造神だけだった。松山は、古代において神の名称はさまざまなものにつけられてきたが、人々の信仰の対象となる神は創造主のみであったと説く。松山においても、多神教たる神道一神教たるキリスト教の間の差異は見かけより遥かに小さいのである。