尋常でない世界の中の平凡で退屈この上ない経験

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 この世は無常で万物流転の世界だというヘラクレイトス的な世界観と、この世は恒常的で不変だとするパルメニデス的な世界観との対立を背景に置きながら、その具体的な一例となる「儚い命」と「命の不変性」の対立が様々な仕方で考えられてきました。そして、前者の代表の一つが仏教の無常観だとすれば、後者の代表格は科学的な恒常観ではないでしょうか。二つの世界観は真っ向から対立するように見えながら、対立だけでなく互いに補完し合う仕方で併存してきた面ももっています。
 ジョン・ヴァーリイ(John Herbert Varley)をダシにして、SFが扱うべきものは何か、そしてそれが私たちの未来ではないのかと大した当てもなく述べてきました。SFを手掛かりにするのは、そこに科学知識がもたらす圧倒的な力とそれに対抗する人間の葛藤を感じるからです。彼の小説と伝統的な科学観、人間観の違いが何を示唆しているのか、同年齢の私には大いに気になるのですが、それをきっかけに一体何が予想できるのか考えてみましょう。
 身体は精神の入れ物であり、その身体の部分は部品として交換が可能、そして精神は情報、データの収集と処理のプロセッサーでしかないとなれば、ヴァーリイが描く世界では正に心身一元論、生物(人間)機械論が完璧に成り立っているということになります。哲学なら、それが本当に正しいかどうかの議論が続くのですが、そんなことに無頓着なのがSFの真骨頂で、なんでもありという風に、哲学的には支離滅裂でも、スリリングで反体制的なメッセージがふんだんに溢れていれば、それで物語としては十分なのです。身体が交換でき、性別も変えられるとなれば、もはやセックスもジェンダーも意味はなく、誕生と死亡は特別の地位を追われ、人格の同一性もすっかりその意味と役割を変えることになります。
 結局、ヴァーリイは人間とその社会という概念を全否定するところから物語をスタートさせたのです。つまり、彼は心身関係の未来モデルの一つを設定し、その中での人々の物語を描いてみせたということになります。それまでの人間観を棄て、「新しい人間の在り方」を描きたかった彼は、古い時代に属す古い人類である私たちが彼の物語を読み進めることができるために古いままの私たちにもわかる「愛」を新旧の世界をつなぐ唯一の絆にしたというのが私の考えです。未来の登場人物にも愛があるとされ、その愛は私たちの愛と重なり合っているのです。
 ヴァーリイの世界では、現在の様々な人間的な問題、例えば性の問題が解決したものとして設定されています。大きな社会的、心理的変革によって、現在私たちが直面しているリアルな問題は、既に解決された過去の遺物に過ぎないものとして扱われています。でも、どのように解決されたかが示されておらず、それゆえ、その限りで単なる夢に過ぎなく、非現実的で、不真面目だと非難されてきました。ヴァーリイ世界の日常生活は、私たちの現実の日常生活と乖離しています。ヴァーリイ世界の登場人物たちが抱え、悩む様々な問題は、私たちが素直に感情移入できるものではありません。では、ヴァーリイは現実の問題から逃避しているのでしょうか。確かに哲学のように正面きってぶつかってはいません。ヴァーリイは現実に無関心などころか、一見楽天的で心地よい世界の中で、彼なりに認識の変革を迫っています。でも、私たちを取りまく環境はもはや自然のものだけではなく、進化は様々な人工的な断絶の上に成り立っていることを強調するなら、彼の小説を下敷きにして、その世界やそこで生きる人間について物語の面白さを味わうだけでなく、物語の内容について哲学することも同じように心躍る(仮想の)経験の筈です。異常で異様な世界の中で、それらの経験の意義を探ることがSFと哲学の交錯する経験となるでしょう。
 精神的な不具合、身体的な故障という表現はまだ私たちの怪我や病気を表現するにはそぐわないと思われています。そのような表現で述べられるSF小説では修理、交換、新品の部品といった言葉で人間機械論を下敷きにした物語が展開されます。性転換、記憶の転送など心身のあらゆる部分が交換によって永続的に存在することが可能になっています。そこには成長、発達、老化、病気などが意味の修正を迫られ、学習の役割が変わり、学校や教育の制度が変更せざるを得ないことになります。
 ここからは誰も問題にしないような事柄です。SF作家が通常書かないことは、そのような技術的な発展によって私たちの未来がつまらなく、退屈なものになるということです。人は一生を生きるのであり、「多生」では有難味がまるでなくなってしまいます。唯一性、個性、個人といった概念が意味を失い、儚く、脆い運命もなくなってしまいます。不死がもたらすものは退屈な永遠でしかありません。ですから、輪廻は嫌われ、そこからの解脱が仏教の目的となったのでした。
 道の通りすがりに、袖が振れ合うというような、偶然でほんのささやかな出会いであっても、それは前世からの深い緑で起こると仏教は考えます。仏教の世界観には、命あるものは死を迎え、そして何度でも生まれかわり、輪廻のなかを回り回っているという思想があります。したがって、正しくは「他生の縁」ではなく「多生の縁」なのです。
 私たち日本人は、日常生活のなかで「ご先祖の生まれ変わり」とか、「前世で悪いことをした報いが来た」などと、「因果応報」というような考え方を比較的、自然に受け止めてきました。茶道の心得のなかにある「一期一会」は「一生に一回だけしか会うことができないのかもしれない、それゆえ、丁寧に茶を入れること」を意味しているから、正に同意義です。
 また、「縁起が良い」という謂い回しをよく聞きますが、「縁起」は物事の初めの由来を説明したものとして使われ、「石山寺縁起」といえば、石山寺をめぐるストーリーを綴ったものです。どんな現象も原因や条件が相互に関係し合っていて、独立自存のものはなく、原因がなければ結果もないということを指しています。一般には吉凶の前兆として、よいことがあれば「縁起が良い」という訳です。一方、「縁なき衆生」は、仏縁のない人間を指していることから、なんの関わりのないグループのことを意味しています。
 科学も宗教もその目的が実現すると、私たちの人生はつまらないものに変わります。無知のものが知られるようになると、つまり無知だったものが知に変わると、人生は見通しがよくなり、その分つまらなくなります。いつまでも目的が達成されないなら、人生はつまらなくはならないのです。神が人を救わなければ、人は救われようと努力するしかありません。神が優しければ、人は神に甘え、神は善き教育者にはなれないでしょう。
 何がわからないかがわからなくなるのが老人の常なのですが、若い時分には何がわからないことかしっかりわかっていたと回顧するくらいはまだできます。そんな老人の意識を支配しているのは次のようなことなのです。
<因果性の崩壊>
 原因と結果は通常は線形の繋がりであり、原因が結果になり、結果が原因に変わることはまずありません。でも、線形ではなく円形になっていると、循環が可能になり、因果性は一筋縄ではいかなくなります。ということは、因果性を基礎に置いた物語は複雑になり、狭い範囲の因果性を認めながらも輪廻を認める奇妙で怪しい構成にしなければならなくなります(例えば、『豊饒の海』の無理な構成)。真剣に因果連関を考えようとすると、反復や循環が可能な世界は見掛けよりずっと複雑で、厳しく見直すなら、「循環」、「反復」という言葉自体がひどくいい加減であることがわかってきます。
<人格の同一性崩壊>
 個人のもつ人格は連続的で、人格の同一性は個人の同一性の重要な基準になってきました。これまで述べてきたことから個人概念が変わると、人格も当然変わることになり、その同一性は身体の同一性と同じように変化して構わないことになります。戸籍が何を意味するのか再考が必要になってくるだけでなく、社会の中での個人の役割や責任はすべて再考しなければならなくなるでしょう。

 運命、宗教、思想のほぼすべては生命の儚さ、一回性、唯一性を前提にしています。生命が恒久的で、永続的なら、私たちの伝統的な文化や思想、芸術はその基盤を失うことになります。実際、(もしあるとすれば)神の思想や文化は人間のそれらとはまるで異なります。世界観、人間観を支えてきたものを根底から覆すのは、物質と生命との区別がなくなり、生命は物質に還元でき、説明でき、同じように扱うことができるという科学知識と技術です。そして、物質だけの世界は私たちには極めて退屈なのです。この退屈さを以下にスリリングに描くかがSF作家の腕の見せ所ということになります。

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