楊洲周延は幕末から明治末期まで活躍し、膨大な数の錦絵を手がけたことで知られる浮世絵師です。1838(天保9)年に高田藩の江戸詰の下級藩士の長男として(高田か江戸のいずれかで)生まれ、橋本直義(通称は作太郎)と呼ばれ、幼いころより狩野派の絵画に親しみます。10代から20代初期にかけ、歌川国芳の門下に入り、2代芳鶴の名で活動。国芳亡後は3代豊国の門下へ、そして3代豊国が亡くなった後は、豊国の弟子であった役者絵を得意とする豊原国周の門下となり、「周延(ちかのぶ)」の名を与えられます。でも、1868(慶応4)年、周延が31歳の時に戊辰戦争が勃発、周延は高田藩士として上野戦争、そして、函館戦争に参戦します。その後、周延が再び浮世絵師としての活動を開始したのは1875(明治8)年頃でした。周延は戦争画や時事の話題、役者絵、歴史画、風景画など、多種多様な画題の浮世絵を描き、明治時代を代表する浮世絵師となりました。
浮世絵は江戸時代に誕生しましたが、木版画技法を基本とし、版元、絵師、彫師、摺師の緻密な協働により生み出されます。特に、多色刷りの「錦絵」が登場し、それによって表現の可能性が大きく広がりました。浮世絵のジャンルは、美人画、役者絵、風景画、武者絵など多岐にわたります。各ジャンルには、喜多川歌麿(美人画)、東洲斎写楽(役者絵)、葛飾北斎(風景画)など、専門性の高い画家がいました。19世紀後半、浮世絵は「ジャポニスム」という文化現象を引き起こし、印象派をはじめとする西洋美術に革新的な影響を与えました。江戸時代は浮世絵の黄金期とされ、この時期の作品は現代でも特に高い評価を受けています。初期の墨摺りから多色刷りへの発展は、浮世絵の表現力を飛躍的に高めました。葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の『東海道五十三次』は、風景画の最高峰として知られています。これらの作品は、構図の斬新さ、色彩の豊かさ、技術の完成度において、現代でも価値の高い浮世絵として評価されています。
明治に入り、浮世絵は西洋文化との出会いにより大きな転換期を迎えました。この時期の作品は、伝統と革新が融合した独特の価値を持っています。西洋画の遠近法や陰影表現を取り入れながら、浮世絵本来の平面性も保持したのが明治期の作品群です。例えば、小林清親による「光線画」は従来の浮世絵にない光と影の表現で注目を集めました。また、月岡芳年の「血みどろ絵(無惨絵)」や戦争画など、時事的な題材を扱った作品が増加しました。
ここで、戊辰戦争と周延について詳しく見てみましょう。1867年11月9日15代将軍徳川慶喜が突如大政を奉還します。討幕勢力は1868年に「王政復古の大号令」として徳川家の完全排除を目論み、徳川慶喜の征夷大将軍職の辞職を承認してその実権を完全に取り除くことを試みます。このクーデターは1603(慶長8)年から約260年間、15代に渡って続いた徳川政権の終焉を意味し、旧幕臣たちは新政府軍と対立する姿勢を見せ、こうして勃発した内戦が「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)です。慶喜が指揮した戦争は1868年に江戸城を明け渡したことで終わりましたが、各地で新政府軍への抵抗部隊が組織され、その一つである「神木隊」(しんぼくたい)に楊洲周延も加わります。神木隊は周延の出身地である高田藩の有志らによって結成されました。高田藩は新政府軍に従いましたが、この決定に従わなかった江戸詰の藩士86名が脱藩し、神木隊を結成したのです。「神木」という名前は高田藩主榊原家の「榊」の字を分けたものです。神木隊は上野寛永寺の彰義隊に加わり、上野戦争を戦います。でも、新政府軍と彰義隊との間には圧倒的な武力差があり、たった1日で新政府軍の圧勝で終わります。周延は江戸を脱し、函館へ向かい、榎本武揚らと合流。五稜郭での籠城戦、箱館戦争にも参加しました。その後、周延は宮古湾の海戦で突入部隊として戦い、重傷を負って前線を退きました。旧幕府軍が降伏した際、周延は東京へ送還されます。その後高田藩預かりとなり、謹慎処分・家禄の召上げ・隠居廃人などの処分が待っていました。高田藩で過ごした時期に、地元の名主でもあった浮世絵師「青木昆山」(あおきこんざん)らと交流を持っています。でも、彼が高田で過ごしたのはこの時期だけと思われます。
1875(明治8)年前後に、謹慎を終えた周延は再び上京。それから浮世絵師としての活動を本格化させ、上野・湯島周辺に拠点を構えます。幕末の周延は武士としての活動が多く、本格的に浮世絵師として活動するのは明治に入ってからのことでした。
浮世絵師、摺師、彫師など浮世絵制作に関する技術は幕末期に頂点に達し、それらの技術は明治初期に「開化絵」という新たなジャンルで活用されました。開化絵は文明開化に伴う変化をテーマとした浮世絵で、洋装・洋髪の日本人、洋風建築物や鉄橋などの洋風橋、汽車や馬車などの新しい乗物を描いています。それらの作品では鮮やかな赤の染料アニリンをよく用いたため、赤絵とも呼ばれました。新しいジャンルの一時的な流行はありましたが、浮世絵産業は全体に衰退していきます。西洋から伝わった写真や印刷の技術の発展により、浮世絵とは異なるメディアが市場を席巻することになったのです。周延はその中にあって活動を続けました。周延は美人画・宮廷絵・歴史画などを積極的に手掛け、文明開化時代の風俗が題材となりました。
最後に明治期の有名な浮世絵師を列挙しておきます。
小林清親(最後の浮世絵師)、
豊原国周(明治の写楽、光線画)、
そして、楊洲周延。