時間の変化(6)

古典力学の時間とカントの認識の時間:哲学に関心がある人へ
(時空の実体論と関係論)
 ライプニッツニュートンは互いに他を正しく批判していた。ニュートンによる宇宙の絶対静止点の考えは実験や観察では確かめることができなく、ニュートン的な時空を構造過多にする。一方、ライプニッツの時空は構造過小で、ニュートンによる絶対回転運動に説明を与えることができない(既に議論した実在論と経験論の論争、あるいは歴史的に有名な実念論唯名論の論争とこの論争を比較してみよ)。
 オイラーニュートンの絶対空間が存在しなければ慣性の法則を表現することができないと仮定した。だが、ランゲ(Lange)の慣性系の導入によって、絶対空間の仮定は余分となった。そのような慣性系に対して、慣性の法則は絶対空間の存在がなくてもその物理的意味をもつことができる。だから、現在、慣性系は慣性の法則が妥当である系として定義されている。
 古典力学での時間はすべての慣性系に一様に適用され、それゆえ、絶対時間である。ある慣性系のすべての点は同一の同調した時間測度を指定できる。時点0の選択と単位時間を決めると、異なる慣性系の時計は互いに同調させることができる。したがって、古典力学の絶対時間の仮定によって、特定の慣性系から独立に普遍的な同時性について語ることができる。だから、すべての観測者に対して同じ仕方で、特定の時点(=現在)によって過去と未来を分離することができる。絶対時間の仮定は数学的にはガリレオ変換t = t’によって表現できる(ガリレオ変換はニュートンの時空より一般的である。というのも、絶対に静止した系が仮定されていないからである)。
 古典力学の時間対称性は重要な意味をもっている。ニュートン運動方程式は加速度を時間に関する物体の位置の二階微分として定義する。だから、前方に進む時間tが後方に進む時間-tで置き換えられても、運動方程式は同じままである。つまり、力学の法則は対称的な変換に関して不変である。したがって、古典力学では時間の二つの方向は区別できず、すべての力学的な過程は摩擦がなければ原理的に可逆である。このような意味で、私たちが経験する不可逆性は力学によっては説明できない(対称性とエントロピーの議論を参照し、ぜひ比較してみてほしい)。だが、私たちの周りで起こる過程はみな不可逆である。力学の時間対称性はどこかパルメニデスの世界に似ており、日常生活での不可逆な現象はヘラクレイトスの世界に似ている。
 知覚や測定に対応しない絶対時間の存在についてのニュートンの仮定は認識の世界にも大きな影響を与えた。カントの認識論では、この仮定は経験的実在としての時間ではなく、経験に先立つ(アプリオリな)意識の形式としての時間という考えの動機になっている。このような時間は観察し、測定し、物理法則を表現することができる前に私たちが前提しなければならないものと考えられている。カントによれば、人間の認識は感覚と理性の共同から生まれる。私たちの感覚器官は知覚の刺激や信号(光、色、音等)を伝え、直観が空間的近接性や時間系列にしたがって順序を与える。空間と時間は、この意味で感覚与件を組織化するために使われる直観の形式である。具体的な経験的時計は直観のアプリオリな形式としての時間の存在を前提にしている。他方、直観の形式としての時間と私たちの時間の主観的知覚を混同してはならない。カントにとって、系列としての出来事がもつ一般的順序のための時間は直観の客観的(超越論的)形式であり、時間の実際の知覚や時計の製作を可能にするものだった。
 直観の形式とは別に、理性の概念形式と判断形式も区別されなければならない。カントの認識論では知識は個々の知覚と直観を一般的概念に従ってカテゴリー化し、判断に到達することによって得られる。例えば、数1の表示やイメージは記号|である。すると、数2は記号||で示される。そして、ごく普通に記号|、||、|||、…はイメージとして自然数の概念に対応することになるだろう。一般図式は番号付けの各段階で単位|を加えることである。カントによれば、これが時間のアプリオリな決定のための一般図式を表している。カントの時間観念は直観の純粋形式であり、自然数の研究として算術のアプリオリな基礎を生み出すものである。ハミルトンやブラウアーはカントの時間観念を算術の基礎と考えた。連続としての時間概念は私たちの連続的な知覚に基づいている。
 持続、時間的系列、同時性といった時間の様相は、私たちが経験を判断するために使うカテゴリーを決める。これらカテゴリーは実体、因果性、相互作用を含んでいる。実体カテゴリーから保存法則が得られる。因果性カテゴリーは原因から結果が得られることを述べた因果性の物理法則(例えば、運動方程式)に対する一般形式である。最後に、相互作用カテゴリーから、相互作用の法則が出てくる。個々の物理法則の実際の表現は物理学の中で行われる。アプリオリに、何か具体的な経験をする前には、認識論は物理法則の一般形式を区別するだけである。時間は観察、測定、法則や理論の定式化すべてに前提されなければならない、カテゴリーのアプリオリな条件となっている。

[時間の歴史2]
 マッハは1883年に力学の歴史を書いたが、そこでニュートンの絶対時間と絶対空間という考えに強く反対した。ニュートンは慣性運動が絶対空間に対するものだと論じたが、マッハはそれが宇宙の全質量の平均に対するものだと主張した。したがって、マッハによれば、時間は相対的変化であり、相対的な距離だけが重要となる。  
 1898年ポアンカレは時間についての極めて重要な二つの問いに関する論文を書いた。「今日の1秒は明日の1秒に等しいか」と問うことは果たして意味があるのだろうか。また、「空間的に離れて起こる二つの出来事が同時に起こる」と言うことは意味をもっているのだろうか。ポアンカレ以前にこのような問いを出した人がいるかもしれないが、問いについてこれほど明確に考えたのは彼が最初である。最初の問いは未だに満足できる解答はないが、二番目の問いはアインシュタインが数年後に答えた。 
 1902年ポアンカレは別の論文で、未来を予測するのにどのような情報が必要か尋ねた。この問いで彼の念頭にあったのは、ニュートンの法則は粒子すべての位置と運動量が知られていれば未来は完全に決定されているというラプラスの認識であった。ニュートンは絶対空間と絶対時間をもとにその理論を考えていたので、粒子の位置と運動量はこの絶対的な座標系に関して与えられた。だが、ポアンカレは相対論的に考え、与えられるものが相対的な量でしかないなら、どんな情報が必要か尋ねた。宇宙が三つの粒子だけからなり、知ることのできるのはそれらの相対的な速度だけだとするなら、どうなるのか。ポアンカレアインシュタインより前に相対性について考えていたが、それを先に明らかにしたのはアインシュタインだった。彼は時間こそ宇宙を理解する鍵だと考えた。
 特殊相対性理論の基礎は意外と単純で、物理学の法則は一定速度で動いている観測者には同じであり、光の速度は光源の速度と観測者から独立しているということである。アインシュタインは絶対空間も絶対時間もないが、法則は慣性系では同じだと仮定した。日常経験の中で空間の直観的性質と時間のそれを区別することがいかに重要でも、そのような区別は物理学が扱う客観的世界にはなく、真に重要になるのは空間や時間ではなく、4次元連続体である。
 一般相対性は重力を時空理論に統合した。これは時間にとって更なる重要な意味をもっていた。特殊相対性によって示されたように時間は重力に影響されるだけでなく、質量の大きい物体にも影響を受ける。地球は質量が大きいが、時間に影響を与えるほどは大きくない。実際、地表の時計は重力が働かない時計よりゆっくり進む。だが、それは極めて小さく、1時間に1秒の1/1000000000 に過ぎない。だが、超高層ビルの屋上の時計と一階の時計の進み方の違いは現在では測ることができる。
 時間と量子力学の関係についてまず言っておくべきことは、量子力学ニュートンの絶対時間の中で始まった点である。ハイゼンベルク不確定性原理を見出したのは1927年である。粒子の位置を正確に知ろうとすればするほど、それと同時にその粒子の運動量を知ることは不確かになっていくという不確定性原理は、ラプラスの普遍的決定論量子力学では成立しないことを意味していた。現在を正確に知ることが理論的にできないのであるから、未来や過去についても正確に知ることができない。また、例えば、粒子のエネルギーとそれを測る時刻の不確定性によって、両方を正確に決定することができない。エネルギーが測られる時刻を正確に知ろうとすればするほど、そのエネルギーを知ることは不正確になっていく。
 アインシュタイン不確定性原理に大きな不満をもっていた。それは世界が正確に記述できないことを意味していたからである。彼は不確定性原理の誤りを示そうと多くの思考実験を工夫し、ボーアに挑戦した。量子力学相対性理論の時間が矛盾するように見えるものがある。その一つがEPRである。これは量子的出来事がしばしば相補的性質をもつ粒子の対を生み出すという事実に依っている。例えば、対の粒子は反対のスピンをもっている。量子力学では測定するまで粒子は二つの可能な状態をもっており、測定すると二つのうちのいずれかの状態に崩壊する。だが、一個の粒子を測定し、それがある状態に崩壊すると、別の粒子は瞬時にそれと相補的な性質をもなければならない。アインシュタインは光速より速く情報を伝達できないと堅く信じていたので、これが量子力学の誤りを示すものと考えた。ベルは1960年代にこのこと(EPRの思考実験)を具体化し、粒子がテストされるまですべての可能な状態をもつことを調べることができる仕方を考案した。一方古典論によれば、二つの粒子がつくられたとき、それらは確定した性質をもち、私たちがその性質をテストするまで知らないだけで、性質は確定している。ベルはこのような古典的場合に成立する「ベルの不等式」を発見し、それを使って粒子の振る舞いが古典的かどうか調べる途を開いた。1980年代アスぺ(Alain Aspect)はこの可能性を実験的に確かめることに成功した。ベルの不等式は成立せず、古典的解釈はうまくいかないことが示された。つまり、一つの粒子がテストされ、特定の状態が選ばれると、片方の粒子は同じ瞬間に相補的な状態を選ばなければならない。これはどんな情報も光速より速く伝達できないという相対性理論の基本原理に反している。