お彼岸には次のような二つの意味があります。一つは迷いや煩悩のある此岸(しがん、この世界)に対し、悟りの彼岸のことで、二つは此岸から悟りの境地の彼岸に至るために、仏道の修行をおこなう期間のことです。秋のお彼岸は9月の「秋分の日」を中日とする前後3日間は、煩悩の世界である此岸から悟りの世界である彼岸に到着するための修行が行われます。その修行をする期間がお彼岸です。この説明に注釈は必要ないように思えますが、「此岸から彼岸に行く」ことが一体何を意味しているのか考えてみましょう。
この世では物質もエネルギーも常に変化し、心さえ流転し、不変の実体などどこにもない、というのが輪廻転生のエッセンスです。心は欲求の塊であり、常に何かに執着し、常に流転し、止まることを知りません。釈迦はその輪廻転生から逃れ、解脱に到達するために、この世(此岸)とは何か、あの世(彼岸)とは何か、をまず追求しました。その結果、この世もあの世も実在しない、という結論に達し、心が執着する対象など実はどこにもないことを理解したのです。執着しない心をもつことこそ真の自由を獲得することであり、それが彼の悟り、解脱でした。
釈迦の仏教には迷信も神話も登場しません。「この世」とは自分自身のことであり、自分自身は「私は生きている」という実感をもっています。その実感は感覚を通じて得られるため、「この世」とは私が感覚経験できる世界のことです。つまり、感覚が生じることによって「私がいる」という錯覚が起こる、と釈迦は考えました。ですから、世界も私も感覚が生み出すものということになり、彼は純粋な観念論者だったのです。
この世に「私がいる」なら、「私が」生きるために多くのものが必要です。生存闘争の世界が限りなく拡がり、そこには苦しみや悲しみが生まれます。それらは「私」という錯覚から生じたのです。同様に、常に変化するこの世界は私から生まれたものに過ぎず、本当は「実在しない」こともわかります。すると、あの世も幻覚、幻想なのです。私たちが、この世を知っていると言っても、その知識は確かめることができず、「あの世」も、同じように験証できません。「私」が錯覚ならば、「この世」も、そして「あの世」も実在するとは言えないのです。彼岸も此岸も方便であり、虚像でしかなく、さらに、「私」も観念に過ぎないことからの帰結になります。
こうして、「私」を無にすることによって、正しく物事を観察すれば、解脱に達する、というのが釈迦の悟ったことのカラクリになります。それが解脱と呼ばれ、輪廻から脱却し、生老病死の四つの人生苦を超越すること、つまり、仏になることなのです。
こんな簡単な要約では実は何もわからないのですが、私には一つだけ肝心と思われることがあります。それは釈迦が「私」という観念に注目し、執着し、それが知り、感じるものは実は錯覚に過ぎないという観念論の立場を採用し、無私に至り、解脱したことです。
*感覚経験が普通通りに実在論的に解釈されると、多くの「私」がこの世で共存する標準的で、お馴染みの世界像が得られます。
**老人は何でも忘れてしまうのですが、「我を忘れる」ことは意外にコントロールができない芸当です。でも、痛みを忘れることが時にはできるように、我を忘れることも私たちは何度も経験しています。夢中になる、一心不乱になることは我を忘れるための条件のようなものと思われています。「我を忘れる」ことが自由自在にコントロールできるなら、無我の境地に近づけるのではないか、これが凡人の私の推測です。