「彼岸、此岸」と「私」:無謀な要約

 この世では物質もエネルギーも常に変わり、心さえ流転し、実体などどこにもないことが輪廻転生のエッセンスです。心は欲求の塊であり、常に何かに執着し、常に流転しています。釈迦はその輪廻転生から逃れ、解脱に到達するために、この世(此岸)とは何か、あの世(彼岸)とは何か、を追求しました。その結果、この世もあの世も実在しない、という結論に達し、心が執着する対象などどこにもないことを示しました。執着のない心をもつことこそ真の自由であり、それが彼の悟り、解脱です。 

 釈迦の仏教には迷信も神話もありません。「この世」とは自分自身のことであり、自分自身は「生きている」という実感をもっています。その実感は感覚を通じて得られるため、「この世」とは私が感覚経験できる世界のことです。つまり、感覚が生じることによって「私がいる」という錯覚が起こる、と釈迦は考えました。世界も私も感覚が生み出すものと言うことになりますから、彼は純粋な観念論者だったのです。

 この世に「私がいる」なら、「私が」生きるために多くのものが必要です。生存闘争の世界が限りなく拡がり、そこには苦しみや悲しみが生まれます。それらは「私」という錯覚から生じたのです。同様に、常に変化するこの世は私から生まれただけで、本当は「実在しない」こともわかります。すると、あの世も幻覚、幻想なのです。私たちが、この世を知っていると言っても、その知識は確かめることができず、「あの世」も、同じように験証できません。「私」が錯覚ならば、「この世」も、そして「あの世」も実在するとは言えないのです。これが、「私」は観念に過ぎないことからの帰結になります。

 こうして、「私」を無にすることによって、正しく物事を観察すれば、解脱に達する、というのが釈迦の悟ったことのカラクリになります。それが解脱と呼ばれ、輪廻から脱却し、生老病死の四つの人生苦を超越すること、つまり、仏になることなのです。

 こんな簡単な要約では何もわからないのですが、私には一つだけ肝心と思われることがあります。それは釈迦が「私」という観念に注目、執着し、それが知り、感じるものは実は錯覚に過ぎないという観念論の立場を採用し、無私に至り、解脱したことです。

*感覚経験が普通通りに実在論的に解釈されれば、多くの「私」がこの世で共存する標準的な世界像が得られます。