祭りへの渇望

   夏は祭りで賑わう。関山神社の火祭りは7月、深川祭り、佃祭りは8月で、お盆と花火、そして祭りが日本の夏の風物となってきた。夏には祭りがよく似合う。だが、今年の夏はまるで違った。

 ほとんどの祭りは当然ながら宗教的な行事。だが、祭りは信者だけのものかと言えば、そんなことはない。日本だけでなく、どの国の祭りも、それを楽しむことが誰にも開放されている場合が多い。伝統的な行事を保持することが使命であり、神や仏への信心の表明は二の次となっている。宗教的な祭りと観光の祭りの二本立てとでも言えるような現状を背景に執り行われる祭りとは一体何なのか。

 環境の変化を感じ取り、学習することによって流行を感じるかのように知るのが生物個体。どの生物個体にも強力なセンサーがあり、センサーは正に感じるかのように知る装置。知覚とは感じるかのように知るセンサーの働きである。それを学習による順応として定着させ、習慣にするのが各個体であるなら、それを適応として進化させるのが生物種。各個体が感じる情報は集団によって習慣化され、その結晶が遺伝されると形質として事実となる。新しい習慣と古い習慣が競合し、習慣の間に共存や競争が起こり、その痕跡であるかのように適応形質が遺伝される。これが生物学での定説、常識であるが、情報がセンサーを通じて学習され習慣となり、それがどのように遺伝情報に変わるかの過程はまだわからないことだらけ。特に文化的な事柄は遺伝情報と遺伝以外の情報の区別がうまくできていない。知識は遺伝されないので、組織的な教育によって情報伝達が行われてきた。これは生物進化というより、文化進化である。

 例えば、宗教は(不遜な謂い方だが)かつて大流行した。それが習慣化され、特定の宗教活動や形態が組織化され、いわば宗教の物象化が行われた。こんな抽象的な謂い回しを忘れれば、習慣化は寺院、仏(聖)像、儀式などを通じて巧みに実現されてきた。物象化を嫌うイスラム教でさえモスクをもっている。夏の祭りもそのような物象化の一つである。祭りは信心していなくても楽しく、待ち遠しいものである。精神が省かれても一向に構わないのが習慣化であり、葬式も祭りも宗教的な信心などなくても立派に社会的なしきたり、制度、出来事として認めら、伝統的な習慣として残り、多くの人の記憶に残るものとなっている。

 宗教の物象化は宗教が精神的なものであるゆえに、人間を惹きつけるためにはものを使って、行為の習慣化を目指したからなのだろう。倫理や道徳も似たようなものだが、いずれであれ習慣として定着させることが求められてきた。文化進化の古いスタイルの典型が祭りであるとすれば、新しいスタイルの典型は科学知識の教育である。

 神を信じなくても祭りは楽しめる。では、祭りを楽しむとは何を楽しむのか。気楽にバカンスや旅を楽しむことと同じだろう。楽しみの契機が祭りであり、その本来の意義は知らなくても気にならないのである。祭りは習慣化され、年に一度、あるいは数年に一度と決められ、祭りの行事もしっかり決められている。

 では、知ることの習慣化が学校教育だとすると、「知る」ことの本質が損なわれるという懸念が出てこないか。信心のない祭りのように憶えるだけの教育は何かが欠けていると心配になるのではないか。それが情報伝達を基本する文化進化なのだが、祭りや学校教育に曝される私たちは単なる情報受容で満足しない本能をもっている。マリア像を拝むことから神学者になることも、算数に飽き足らず数学理論をつくることも、文化進化であるなら、情報は伝達されるだけでなく、変容され、進化する。だから、文化進化も生物進化とタイアップしているのである。

 祭りは信心の入口だなどと思うと、祭りがつまらなくなる。祭りはうっぷん晴らしであり、身体を動かし汗をかくことでも一向に構わない。それが神への信心ではなく、年に一度の心を一つにした行為であっても、それで十分で、それも文化進化のエッセンスなのである。

 そんな思いが実現できない昨今、人はより一層祭りを渇望するのである。