信念の度合い

人間は理性的である。

動物は理性的でない。

だから、人間は動物ではない。

 

 この三段論法は正しく、前提の二つの文が正しいなら、結論の文を疑うことなどできません。これがアリストテレスの成果なのです。それによれば、どこにも偽の入り込む余地はないのです。「人間」、「動物」、「理性的」は概念であり、一般名詞や形容詞で表現されます。それら概念の外延が確定していれば、上の三段論法は単に論理的に真であり、各文は実質的(経験科学的)にも有意味ということになります。さらに、二つの前提が経験的に真であれば、結論「人間は動物でない」は端的に真になります。でも、概念が確定的かどうか、前提が経験的に真かどうかはいずれも実験や観察によって確証されなければ、何とも言えないのです。

 その経験的な確証には何が必要なのでしょうか。当然ながら、概念が確定的であるためには、経験的には計量可能であることが必要になります。確証するためには「すべての人間」が理性的かどうか調べなければなりません。そのためには「人間」という概念の正確な範囲(伝統的に「外延」と呼ばれてきた)を知る必要があります。例えば、個々の人間が「人間量(人間らしさの程度)」の値をもち、その値によって人間かどうか判定できれば、「人間」概念は確定的であり、それによって文の真偽を定めることができます。他の概念についても同様のことが言えれば、上の三段論法は二つの前提を確証することによって得られる結論を述べたものとなります。つまり、推論の結論とは、確証した文から得られるもので、確証した文と同じ資格をもつ文ということになります。三段論法だけでなく、推論とは一般に実験や観察によって経験的に前提の真偽が判定できるなら、結論の真偽が自動的にわかるというものに過ぎません。その意味で、推論自体は事実の世界にはない、事実に関する情報処理のようなものなのです。

 三段論法を条件法として一つの文に直しても、正しい三段論法ならトートロジーで経験的には無意味です。正しくなければ、傾向的な性質を主張していることになります。傾向的な事実は要素文(論理記号を含まない文)で表現される要素的な事実とは違って、私たちが通常認識できる事実とは違います。二つの異なる事実が「ならば」で結ばれたものを一つの事実として認識できるかと問われれば、私たちにはできません。それは私たちの意識の世界にしかないからです(このような立場がベイズ主義の基本にあります)。

 信念の度合いがベイズ主義での確率概念概念です。主観的な確率と呼ばれ、客観的な頻度解釈とは違うと考えられてきました。その主観的な解釈の一つが多値論理やファジー論理を使った解釈です。曖昧で、ファジーな概念とは外延がぼんやりした概念のことです。

 結論の正しさや信頼の程度についてどのような計算方法を使うか、これまでいろいろ考えられてきました。文の中に登場する概念の最も低い値を結論の値とするか、複数のファジー値を組み合わせて定義するか、色んな方法が考えられ、状況に応じてどれが良いか試されてきました。いずれにしろ、その値は事実についての真偽ではなく、事実についての信念の度合いということです。