「これは何か」と「人は何か」

 「これは何か」、そして「人は何か」と訊かれて、何と答えるだろうか。「これ」と「人」の違いが気になるなら、「これ」が人を指す、あるいは「これ」に「人」を代入すると考えれば、同じ形の問いだと見做すことができる。だが、普通は誰もそのようには考えない。それはどうしてかについての答えを副産物にするような仕方で、まずは何と答えるか、その候補の幾つかを挙げてみよう。

(1)この人は以前に見たことがある。場所は公園だった。この人の名は…
(2)これは日本人だが、日本人の何を訊いているのだろうか。
(3)この問いはどんな意図で発せられたのだろうか。

この三者三様の反応をみるなら、「これは何か」、「人は何か」という問いが、状況に応じて、知覚、記憶、知識、意図について尋ねているのだと受け取られる可能性を示している。
 まずは、「これ(人)は何か」の「これ(人)」が何を指しているかがわかっていなければならない。通常は「これ(人)」が知覚されていなければならない。その際、訊かれているものが私に未知のものなら、問いには答えようがない。問われているものが私の見たこともないものだったら、私は「これは何か」と自問自答するしかない。幸い、人の場合は私にはそれが何かまるで知らないということはない。問われているものが未知かどうかは、それが私の記憶にあるか否かによってわかることであり、まずは以前見たことがあるかどうか確認することになる。憶えていれば、それが何かへの解答は私のもつ知識を使って答えることになる。(2)はさらに詳しい状況、人についての知識が背後になければ答えられないだろう。最後の(3)は記憶と知識が十分にあるという前提のもとで質問者の意図についての質問になっている。
 このように見てくると、「これ(人)は何か」という単純な問いでも懐が深いという印象をもってしまうのだが、問いの見かけの形と意味とは決して同じではないことがはっきりしてくる。専門的な問い、アカデミックな問い、知識についての問いは見かけは面倒に映るのだが、何をどのように答えればいいかがはっきりしているので、答えが正しいか否かが判定できるという意味で易しいのである。「この人の職業は何か」と「この人はどんな人か」と尋ねられるなら、前者の方が遥かに容易に答えられる。
 こうして、単純で短い問いほど答えは厄介で、複雑で長い問いほど答えは容易だということが正しいのではないかと思われてくる。「これは何か」、「何、これ」と言った問いは単純で短い問いの典型であり、それゆえ、その答えは複雑で長くなる、ということになる。このような単純で短い問いは「代名詞的な問い」と呼んでもよいだろう。すると、代名詞が何を指すかが使われる状況に応じて変わるように、代名詞的な問いも状況に応じて答えが変わることが容易に想像できる。答えは厄介でも、状況の助けによって単純で短い答えができる。この文脈や状況の手助けこそ代名詞的な問いに対する私たちの対処法であり、「これ」に「人」を代入して同じように対処すれば問題なく答えられるのに、私たちは代入を禁止するのである。私たちが哲学的な「これ(人)は何か」と実践的な「これ(人)は何か」が異なる問いだと考えるのは、この代入の禁止をしているからではないのか。禁止がなく、「これ」に代入できる名詞の場合は、その名詞が何を指すかに実践的に答えることができるのである。この使い分けの判断もまた文脈、状況に応じて変わる。大抵の言語において、固有名詞ではない一般名詞の場合、「これ」に代入できないというのが自然言語の規則となっている。これを哲学的に表現すれば、個物に概念を置きかえることは誤りだということになる。だが、文脈や状況を固定できれば、「これ」に「人」が代入できるような場合が存在するのである。その場合は実践的に答えることができ、生活世界で実践的に概念が使われることを示している。