神々と人々の絆(10): 住吉明神や中国の神々あるいは人々

 三人の男の神様と一人の女の神様が合体したのが住吉大神だった。神々の合体の過程はよくわからないが、守護の威力が増すことは確かである。
 既にヒンズー教の三神一体について述べた。ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァが同一であり、これらの神は力関係の上では同等であり、単一の神聖な存在から顕現する機能を異にする三つの様相に過ぎないという理論だった。すなわち、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの3柱は、それぞれ宇宙の創造、維持、破壊という三つの機能が三人組という形で神格化されたものだった。
 海の神であるソコツツノオ命(底筒之男命)、ナカツツノオ命(中筒之男命)、ウワツツノオ命(表筒之男命)の三神の総称が住吉の神。イザナギイザナミを死者の国(黄泉の国)へと追いかけて行き、腐乱死体となったイザナミを見て逃げ帰ってきて、地上で死者の国の穢れを海で洗い流した際に産まれた神々である。住吉三神は大坂の住江(住之江)の豪族の氏神だったようで、朝鮮・中国との貿易が盛んになるとこの地域は貿易港となって栄え、大和朝廷にとりたてられる。そして、天皇家の航海の守護神として祀られた。仲哀天皇が九州の反乱を治めていたとき、神から神託があった。「西に金銀財宝の豊かな国がある。そこを服属させて与えよう」と神託をしたのが住吉三神。神の子を宿した神功皇后住吉三神の導きのままに朝鮮半島に向かう。朝鮮半島の王たちは神功皇后の力に驚き、貢物をする約束した。
 住吉大神は現実に姿を顕す「現人神」としても、信仰されている。長い白ひげを生やした老翁の姿で顕れ、和歌や俳句を嗜んだと言われている。和歌を用いて御神託を行ったことが、住吉大社の記録や『伊勢物語』などに記されていて、歌の神としても親しまれるようになった。和歌だけではなく、『源氏物語』では、明石の君にゆかりの深い地として、住吉が登場するシーンが描かれている。おとぎ話の「一寸法師」では、子供のいなかった老夫婦が住吉大神に祈願し、授かったのが一寸法師。また、能の「白楽天」での住吉明神の文才は既に述べた。
 さて、最後に中国の神々に触れておこう。中国に神という概念はあったが、歴史時代の前に神話時代があったとは考えられていない。 むしろ、人と神と仙人とが混然と交わってきた。儒教では最初はカオスの世界で、やがて清んだ陽気が天となり、濁った陰気が地となった。ここに盤古という巨大な神が生まれ、吐息から風、涙から雨、またその遺体から山岳や草木等が生まれたという。盤古の死と共に世界の創造は終わり、「三皇五帝」という神あるいは君主が世界を治め、かつ創造を完了する。まずは三皇が次々に現れる。
 伏羲は蛇身人首の神で、家畜の飼育や漁撈などを教える。女媧は蛇身人首の神で、伏羲の妹とされ、人類を泥から作った(あるいは産んだ)。神農は人身牛首の神で、伏羲の子孫で農耕や医薬などの発明者とされる。だが、伏羲や神農が陳の街に都をおいて王に即位したり、後述の黄帝と戦った伝承があったりで、人間の王との区別が曖昧である。次に現れた五帝は、最初の王とも呼ばれる黄帝や善政の代名詞とされる堯舜など、もはやほぼ完全に人間の王になってしまう。司馬遷によれば、黄帝は中国文化と文明の源泉の象徴である。黄帝は数多くの戦いに勝ったが、侵略には何の喜びも見出さない偉大な英雄とされた。堯もまた理想的な帝であったが、その子には帝としての器量が足りないことを危惧し、冷酷な継母に対しよく孝行していたことで評判の高い舜を登用した。舜は堯の命を受けて教育を任されれば世に孝行を広め、官庁を任されれば綱紀を正し、遂に認められて帝となった。
 これらの物語は儒教成立以前から伝えられてきたもので、『楚辞』、『淮南子』等にまとめられている。また、神と人との区別の曖昧さについては、当時の神話を文字に書き記した人々、すなわち孔子を始めとした春秋時代諸子百家の思想家たちの合理主義に原因を求める意見もある。彼らは自説を例証する材料として、神秘的な神話を人間たちの歴史的故事に書き換えたというのである。儒教の神話は皇帝の祭祀権独占を保証する神話であり、民間には祖先祭祀ぐらいしか残らなかったのだ。
 次が道教の成立と神話復興。公式の神話が皇帝権に還元された一方で、民衆の間に別の神話体系が生まれつつあった。時代は漢の末に下り、三国志の時代のことである。この時代に活動した黄巾賊(太平道)と五斗米道はいわゆる草創期の道教教団である。太平道は黄巾賊の乱と呼ばれる反乱を起こし、後漢王朝によって滅ぼされてしまう。だが、五斗米道の教団は存続した。このような五斗米道に始まるのが、民衆から生まれた神話体系である道教とその神話である。道教の神話は皇帝を始めとした栄枯盛衰の激しい社会の上層にも広まっていく。創始者は人か神か。道教創始者とされるのは儒教孔子とほぼ同時代の人物とされる老子である。老子五斗米道によって天の最高神に祭り上げられた。人から最高神への出世である。 道教教義上の至上倫理は「道」だが、これを神格化したのが太上道君である。
 関帝聖君も人気の高い神である。三国志の英雄関羽のことである。歴代の王朝から武人の鏡として崇拝されるうち、武神とされるようになった。さらには算盤の発明者とされ、商売の神ともされるようになった。関羽も人から神になったのである。この頃中国に仏教が伝来する。道教と仏教は一応は別の教団だが、時として混淆される。その典型が西遊記である。釈迦の命で旅立つ仏教説話だが、多くの道教の神々が登場し、道教神話にもなっている。主人公の孫悟空道教の神「斉天大聖」としても祀られる。
 死後の世界について儒教道教とで神話はやや異なるが、共通する大きな特徴の一つは、死後の世界がないことである。儒教では祖先霊として子孫を守ることになるが、 孔子の「怪力乱神を語らず」とあるように死後の世界の実態は曖昧なまま。また、道教の目的は、長命を得て仙人となり、自らが神となることである。それは上述の神話に人→仙人→神への出世があることからもわかる。 だが、死後の幸福を求める神話や信仰はほとんどない。歴代の道教を保護した皇帝は、仙薬を飲んで自ら不老不死の仙人になろうとした。キリスト教をはじめとして死後の世界での幸福を信仰の中心とする宗教が多いが、以上のように、中国神話の世界では、信仰の中心はむしろ長命であり、できれば不死の仙人となることである。そして、神とは人が仙人の修行の果てになる存在という側面が強い。かくして、神、人、仙人が入り混じった共同体の中国神話が存在しているのである。