神や仏の無限の森に分け入り、迷い歩く(2)

 人の心の悩みを受け止め、それを救済するというのが宗教の建前ですが、その本音となれば、葬祭以外に重要だった一つが鎮護国家思想です。仏教は国家を守り、安定をもたらすものであるというのが鎮護国家思想で、これは仏教だけでなく、神道にも同じように成り立ちます。国の運営に寄与・貢献するのが宗教の役割という考えは日本だけでなく、世界中にあり、宗教が私たちの生活を左右してきました。

 自らを毘沙門天の化身と信じ、戦いの天才として、武田信玄と何度も激闘した酒豪謙信にとって、宗教は何より自らの信仰を意味していましたが、上杉藩にとっての宗教は鎮護の手段でした。鎮護国家思想によって「国家の運営」と「仏教(や神道)の信仰」は密接につながることになります。さらにそれを強めれば、仏教(や神道)を「国教」にすることです。特定の宗教が国の宗教であるという例は昔から実にたくさんありますが、日本ではどうだったのでしょうか。言わずもがなのことですが、今の日本に国教はありません。

 741(天平13)年に聖武天皇が発した「国分寺国分僧寺国分尼寺)」の建立の詔及びその建設事業(仏像や経典を国中に普及させ、国家の安定を図ろうとした)、743(天平15)年には、国家の安泰を願って聖武天皇東大寺盧舎那仏像(大仏)の造立を発願(752(天平勝宝4)年に開眼供養)、南都七大寺を保護し、各寺院で多数の僧侶が仏教の教理研究を行うことを奨励、光明皇后が亡父藤原不比等、亡母橘夫人の追悼の意を込めて7000巻に渡る「光明皇后発願一切経」を20年をかけて実施など、いずれも国家を守るためのもので、当時の国家運営と仏教が強く結びついていたことを如実に示しています。「鎮護国家思想」は奈良時代の国家運営の基本であり、奈良時代の日本は仏教国家でした。

 また、奈良時代鎮護国家の理論的支柱は『仁王般若経(にんのうはんにゃきょう)』と『金光明経(こんこうみょうきょう)』ですが、平安時代には『法華経』がそれに加えられ、「護国三部経」と呼ばれ、重要な経典となりました。鎮護国家思想は平安時代以降にも一定程度受け継がれ、仏教思想の中における「護国」的な考え方や国家と仏教の関係は長らく重要な位置を占めることにはなります。「護国寺」という寺名は鎮護国家を象徴しています。

 さて、怨霊はその相手や敵などに災いをもたらし、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらします。その霊を鎮め、神として祀れば、「御霊(ごりょう)」として鎮護の神となって平穏を与えるという考え方が平安期に広まります。これが御霊(ごりょう)信仰です。

 菅原道真は忠臣として名高く、右大臣にまで上り詰めましたが、謀反を計画したとして大宰府へ左遷され、そこで没します。死後、怨霊と化したと考えられ、天満天神として信仰されます。道真と同じように畏れられた怨霊が平将門築土神社神田明神など)と崇徳上皇安井金比羅宮)です。

 ところで、護国神社靖国神社には何が祀られているかというと、幕末から太平洋戦争までの英霊。護国神社靖国神社では兵士英霊の御霊を祭神としています。日本人の感覚では死者を神として祀るのは怨霊となって世を乱さないためで、英霊もその例外ではありません。