意味の本性(1)

[フレーゲ:思想、論理的探求]
 すべての数学的真理が論理的な規則と定義だけから証明できるという意味で、数学が論理の一分野であることを示すことがフレーゲ(Friedrich Ludwig Gottlob Frege, 1848-1925)の研究の目的だった。これが、数学は論理学に還元されるという、いわゆる論理主義の主張である。論理主義によって、論理学が信頼できるのであれば、論理学によって数学の基礎付けが保証されることになる。フレーゲの「思想(Thought)」は論理の本性に関する研究の一部であり、後に放棄されたとはいえ、その研究によって真理の本性を解明し、それを使って論理と数学の関係を明らかにすることが目標だった。

(真理、Truth)
古典力学が運動法則に関わっているように、論理学は真理法則に関わっている。古典力学消費者運動や運動会に関わっていないように、論理学は、この絵は「レンブラントの真作だ」というときの「真」には関わっていないし、この小説は「愛についての真実」を描いたというときの「真」にも関わっていない。
真理は像や観念(pictures and ideas)と像や観念が対象としている実在(reality)との間の対応の関係ではない。「…の左」や「…の母親」とは違って「真」は関係的な語ではない。ある画像が真だとしてみよう。その画像が真ならば、画像が描く実在に正確に対応している。そうであれば、画像はそれが描く実在と同じである。だが、画像はそれが描く実在と同じではない。だから、どんな画像も真ではない。
真理を循環しないで定義することはできない。真理を定義するには何が真であるかの特徴を述べる必要がある。何かが真であるなら、それがその特徴をもっていることが真である。この最後の「真」はどこで定義されたのだろうか。
真理の概念は分析不能なものと考えるべきだろう。 それでも、どんなものが真か偽かを調べることによって真理をより明確に理解することができる。

(思想、Thoughts)
思想とは何か。有意味な文は意義(sense)をもつ。その意義が真であるか偽であるかに応じて、その文は真であるか偽であるかになる。文は思想を表現する。どんな思想も文の意義である。文「ファイドは犬だ」が真であるかどうかと問うことができる。{ファイドは犬だ}という思想は「ファイドは犬だ」という文によって表現される。だが、すべての意義が思考である訳ではない。命令形の文「ドアを閉めろ」が真かどうかと問うことは意味がない。「ドアを閉めろ」は思想を表現していないからである。
真理は思想の性質ではない。もしそうだとすれば、「真」の意義はそれが現われる文の意義に何か貢献しなければならない。「ファイドは犬だ」、「ファイドは犬だというのは真である」という文は同じ意義をもち、それゆえ、同じ思想を表している。真理が思想の性質でないならば、ファイドが犬であることが真であることを私たちはどのように見つけることができるのか。思想を判断したり、述べたりすることから、思想を考えることを区別しなければならない。「ファイドは犬であるか」と「ファイドは犬である」は共に同じ思想{ファイドは犬である}を表現している。私はその思想を考えることができる。私は{ファイドが犬である}ことを、それを述べたり、信じたりしなくても判断できる。私は{ファイドが犬である}ことが真であると述べることができる。それゆえ、私は{ファイドは犬である}を、{ファイドが犬であるが真であること}を述べることなく、述べることができる。コミュニケーションするとは貴方がわからせたいと意図する思想を他人に理解させることである。文の内容はそれが表現する思想とは違っている。文の内容はそれが表現する思想を超えているかも知れない。
文が表現する思想はそれを表現する文によってうまく掴まれていないかも知れない。その原因の一つは文脈感受性である。「雨が降っている」という文は今日真でも、明日は偽かも知れない。その文が表現する思考を不完全にしか掴んでいないからである。今日、私は「雨が降っている」という文を使って、2019年9月22日東京に雨が降っているという思想を表現する。だが、その同じ文を同じ思想を表現するのに明日使うことはできない。その文によって表現されている思想、例えば、2019年9月22日東京に雨が降っていることは、真ならいつでも真であり、偽ならいつでも偽である。

(問)経験的な内容を表現する、総合的な文が文脈感受性をもち、論理的、数学的な内容を表現する、分析的な文が文脈感受性をもたないことを説明しなさい。

文(思想)の意義はその構成部分の意義から合成的につくられている。二つの思想は、二人の能力ある人がそれらに対して異なる態度を合理的に取ることができれば、異なっている。二つの表現は意義が異なっても、同じ指示をもつことができる。「スーパーマン」と「クラーク・ケント」は同じ指示をもつが、それらの意義は異なっている。「私」と「与作」は同じ指示をもっていても、異なる意義をもつ。それゆえ、「私は講師である」によって私が表現する思想は「与作は講師である」によってあなたが表現する思想と違う。

(問)「思想」と「命題、理論」の共通点を説明しなさい。

(第3領域)
思想はテーブル、椅子、雲といった外在的な対象からなる外部領域に属していない。外在的な対象は知覚できるが、思想は物資的でも、知覚可能でもない。{ファイドは犬である}という思想は赤だったり、尻尾をもっていたりしないし、赤であることも、尻尾をもつこともできない。思想は観念の内在的領域にも属していない。観念は感覚印象、想像の産物、フィーリング、ムード、願望、決断といった心理的な領域に存在している。そのため、観念は知覚できない。私は青空という私の感覚印象を見ることがない。観念には担い手がある。緑の野原の感覚印象は本質的に誰かの感覚印象である。観念は唯一の担い手をもっている。緑の野原の私の感覚印象は緑の野原の貴方の感覚印象ではあり得ない。いずれにしろ、観念は心理的なものであり、ポパー(Karl Popper, 1902-1994)の世界2に属している。
思想は観念ではない。思想は単一の担い手をもつ必要がない。あなたと私は2+2=4という思考を考えることができる。思想に担い手は要らない。2+2=4であることは、誰もそれを考えなくても、真であるだろう。思想は観念であれば、間主観的なコミュニケーションは存在しないだろう。思想は内在的、そして外在的な世界から離れた、第3の領域と呼べるような領域に属している。ポパー風には世界3に属している。
思想は固有の担い手を本質的にもっていない。私は私が思想を考える担い手だが、私の思想の担い手ではない。思想はそれらの存在のために私たちに依存しているのではない。思想の対象は外在的領域に属しているかも知れない。私たちが共に{ファイドは犬である}ことを考えるとき、私たちの思想の対象はファイドである。
思想は非物質的で、知覚できない。思想の対象は内在的な領域に属しているだろうか。あなたと私は私の足の痛みを考えるかも知れない。私たちの思想の対象は痛みだろう。だが、私の痛みのあなたの観念は、私の痛みの私の観念ではないだろう。

(問)観念と思想の違いを述べなさい。
(問)フレーゲが思想をどのように考えていたか説明しなさい。