榊原政令の赤倉開発

 赤倉温泉が「此ほど寒酸の極に陥つた町並を見たことが無い」と紅葉に書かれたことについて何度か触れたのだが、それを気にする地元の人はまずおらず、沈黙によって無視される。藩営温泉の実態、幕末から明治に変わり、温泉経営はどのような影響を受けたのか、スキー場が開かれるまでの温泉場はどのようなものだったのか、知りたくなってくる。

 赤倉温泉の誕生は榊原政令(まさのり)の功績。今でも上杉謙信上越市の英雄だが、榊原藩の藩政の英雄は政令赤倉温泉の開発もその一つで、それは日本初の第三セクター方式の温泉開発。それを実行したのが、榊原政令
 榊原政令は1776(安永5)年に二代目政敦の長子として生まれ、藩士への産綬事業推奨、赤倉温泉を掘削し、藩士に果樹の木の植樹を推進するなど多方面にわたる改革や産業の育成を行い、藩財政を立て直した。また、陸奥国の飛び地分9万石余のうち5万石余を高田城隣接地に付け替えられるという幸運もあり、藩財政は安定した。
 政令は思い切った人材登用、倹約令の発布、新田開発、用水の開鑿、内職の奨励、牧場の経営、温泉開発までやった。また、「武士がそろばんをはじいて何が悪い」と藩士たちにも盛んに内職を勧めた。数年後には藩士たちの作った曲物、竹籠、凧、盆提灯などが高田の特産品となり、信州や関東まで売り出された(『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』(磯田道央、2003、新潮新書)を遥かに超える)。
 赤倉温泉は1816年に開かれた。地元の庄屋が地獄谷の温泉を麓に引いて湯治場を作りたいと高田藩に願い出る。藩の事業として開発が始められ、温泉奉行を置く藩営温泉となった。妙高山を領地としていた関山神社の別当宝蔵院に温泉買い入れ金800両、関温泉への迷惑料300両を支払って開発が始まった。2年間の開発経費3120両、温泉宿などの建設経費2161両で、当時としては大開発事業。政令財政再建によって、榊原家は天明天保の飢饉の際には一人の餓死者も出さなかった。

*大手町にある榊神社は「榊原康政・3代忠次・11代政令・14代政敬」が顕彰され、まつられている。