宿場、在郷、温泉

 北国街道の新井宿(あらいしゅく)は河川交通の要衝として早くから開かれていました。宿場は上町(かんまち)、中町(なかまち)、下町(しもまち)で構成され、役人が住む宿場の中心は中町にありました。現在も続く新井の朝市は、宿場に対する保護政策の一環で、江戸時代に制度化されたものです。

 妙高市は旧新井市、旧妙高高原町、旧妙高村の併合によってできましたが、新井宿の周辺には在郷町が点在していました。物資の集積地として早くから開かれていた新井宿は、飯山街道の起点でもあり、信州・江戸への荷物の運搬の拠点でした。新井の中町には本陣(大名・幕府役人などの休憩施設)・町名主宅(村の代表者宅)・高札場(法令を知らせる立て札所)・問屋(宿役人馬の責任者宅)などが軒を列ねていました。元禄14(1701)年から文化6(1809)年の間は幕府代官所の陣屋が置かれ、大崎郷・上板倉郷・下坂倉郷の計97ヵ村総高5万石余を支配していました。

 在郷町は中世から近世に、農村部で生産の発展に伴って生まれた集落。主要な街道が通る農村では、その街道沿いに形成されました。他の町と違うのは、町の中心となる施設(城郭・大きな宿場・有力寺社など)がないことで、それが農村部で自然発生的にできたことを物語っています。私の子供の頃の記憶でも、北国街道沿いの上町、中町、下町には商店が並び、小出雲や石塚となると農家の集落が主となっていて、在郷町の特徴がまだ残っていました。実際、町場の子供たちと小出雲の私は違うと子供の私でも肌で感じていました。私が子供の頃の小出雲や石塚は新井町に併合され、既に在とは呼んでおらず、それ以外の郊外の農村集落が在、在郷と呼ばれていました。

 でも、高度経済期を迎え、さらに車社会が到来する頃には、新しい住宅地が増え、郊外型の大規模店舗が登場し始め、在だけでなく町の中心部の商店や娯楽施設も衰退を始めます。その結果、多くの在郷町は衰退し、新井宿も他の在郷町と運命を共にしたのです。

 

 さて、次は温泉町。江戸時代の温泉開発となれば、赤倉温泉妙高山をご神体とする宝蔵院(関山権現)がその温泉の権利を握っていました。安永7(1778)年に長野県牟礼村から、天明元(1781)年には地元の庄屋たちから湯治場の開湯の願いが出されます。でも、宝蔵院は神聖な妙高山に俗人が入るのを嫌い、さらに享保12(1727)年にすでに開湯していた関温泉から入る冥加金が減るのを嫌い、許可を出しませんでした。文化11(1814)年、庄屋の中嶋源八らが中心となり、藩主榊原政令(まさのり)に、温泉場開発の願いを出しました。温泉買い入れ金800両、打撃が予測される関の湯(今の関温泉で宝蔵院の領地)への迷惑料300両を宝蔵院に支払うことを条件に、文化12年についに許可が出ます。文化13(1816)年3月より着工。総経費120両余、拝借米2000俵、続く温泉宿の建設や新田開発の費用が2161両という壮大な開発事業でした。文化13年赤倉温泉は日本唯一の藩営温泉となるのです。今風に言うなら、第三セクターによる温泉経営であり、日本最初のものでした。
 その後、明治26(1893)年に信越本線直江津・上野間の全線が開通。これと同時に従来の湯治客が激減します。そのため、それを補う方法として県外客を誘致することに努め、その結果、皇族や文化人・県知事などが訪れるようになりました。
 尾崎紅葉の『煙霞療養』は明治32(1899)年7月1日に東京・上野を出発し、赤倉温泉に2泊、新潟市に5泊、佐渡20日間余り過ごした旅日記。直江津までが12時間、さらに新潟まで行く必要があり、その初日から赤倉滞在まで彼は次のように記しています。

…入ってみると大変が有る。出札口に掲示して、水害の為線路毀損に付田口駅以北は不通の事、と飽くまで祟つて居るのであつた。…何とか禍を転じて福と作す工夫は有るまいか、と鉄道案内の一〇二頁と云ふのを見ると、田口駅の項に「赤倉温泉あり」としてある。

…六時三十分に垂として新潟県下越後国中頸城郡一本木新田赤倉鉱泉(字元湯)香嶽楼に着す。

…凡そ己の知る限りに、此ほど山水の勝を占めた温泉場は無いのであるが、又此ほど寒酸の極に陥つた町並を見たことが無い。

 また、無類の温泉好きの与謝野晶子も赤倉が好きな文人の一人でした。文化人の中で特に赤倉を愛した人は、日本美術の理解者である岡倉天心でしょう。天心が初めて赤倉を訪れたのは明治39(1906)年で、その後彼は赤倉に別荘を建て、東洋のバルビゾンを夢見たのです。でも、彼には赤倉は活躍の場ではなく、終焉の地でした。
 鉄道の開通により湯治客が減少し、苦境に立った赤倉温泉を救ったもう一つは、駅に近い田口地区から持ち掛けられた分湯の話です。田口地区が赤倉の温泉を分湯する権利を、当時の金額6000円で買い取り、妙高温泉が明治36(1903)年から営業を始めます。さらに、大正6(1917)年から池の平温泉の開発が始まりました。
 上越の人々は上杉謙信に片思いを続け、榊原家には概して冷たいようなのですが、赤倉の人々は宝蔵院ではなく、榊原政令こそが赤倉温泉の生みの親の一人だったことを肝に銘じるべきなのです。つまり、「赤倉温泉といえば岡倉天心」だけでなく、「赤倉温泉といえば榊原政令」でもあるのです。