もぐさ

もぐさ(0)
 もぐさはお灸に欠かせないが、お灸をすえるために本当のお灸を何度かすえられ、火傷の跡が私には残っている。むろん、それを恨んでいるわけではない。小出雲坂ではなく、小出雲の坂を上り、右に回って暫く行くともぐさ工場と呼ばれていた亀谷左京商店新井工場が見えてくる。子供の私には正式の工場名など知らず、「もぐさこうば」とだけ呼んでいた。いつも静かで、ひっそりしていて、大きな水車だけが動いていて、のどかで、のんびりした印象だけが残っている。[織田]によれば、亀谷商店の創業は江戸初期の寛文元年(1616年)、 昭和10年に原料のヨモギが豊富で人件費の安い新井に工場を建てたという。工場では渋江川の水を引き、水車を回して動力としていた。戦時中は陸海軍にももぐさを収めていた。昭和53年2月に原因不明の出火によって工場は全焼、この時期に渋江川では大規模な改修工事が行われていて、水車を使うことができなくなり、工場は再建されなかった。昭和41年に新井を去った私は工場の火事も渋江川の改修工事も知らない。
 ところで、中山道柏原宿の街道名物だった伊吹もぐさの老舗「亀谷左京商店」は今も健在。街道に面して建つ現在の建物は文化12年(1815)に建てられたもので、歌川広重の「木曽街道六十九次の内 柏原」に店頭の風景が描かれている。柏原は現在の滋賀県にあり、中山道の宿場。絵の店内の右側に薬艾(もぐさ)とある。
 田舎ではもぐさ=ヨモギで、「もぐさ観音」、「もぐさ餅」といった言葉が使われていた。もぐさを乾燥させ、工場に売り、学用品を揃えるというようなことを学校を通じて夏休みにやっていたのを憶えている。
「もぐさの記事を再掲」http://blog.goo.ne.jp/al…/e/75507ff0327ebdba09fe58002823c70e
織田隆三「モグサの研究(7)昔のモグサ工場について」『全日本鍼灸学会雑誌』46巻2号85-89, 1996

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もぐさ(1)
 明治初期は富山県が首位の主産地で、昭和以降の高級モグサは100パーセント新潟県で製造されている。もぐさ(艾)は、ヨモギの葉の裏にある繊毛を精製したもの。主に灸に使用される。もぐさは、よく生育したヨモギの葉を夏に採集し、臼で搗(つ)き、篩にかけ、陰干しする工程を繰り返して作られる。点灸用に使用される不純物のない繊毛だけの艾を作るには、多くの手間暇がかかるため、大変高価である。高級品ほど、点火しやすく、火力が穏やかで、半米粒大のもぐさでは、皮膚の上で直接点火しても、心地よい熱さを感じるほどである。
もぐさ(2)
百草(ひゃくそう)
 「百草」の名前は「百の病に効果がある」または「百種類の薬草を合わせた物ほどの効果がある」ことから名付けられたといわれている。ミカン科の落葉高木「キハダ」の内皮「黄檗」から抽出されるオウバクエキスを主成分とした胃腸薬である。キハダは縄文人の居住跡から樹皮が発見され、考古学上日本最古の生薬と言われている。今から約1300年前の持統天皇の頃、当時疫病が大流行して人々が大変苦しんだときに、役小角(えんのおづぬ、山伏修験道の開祖)が、大和国葛城の吉祥草寺境内に大きな釜を据えて、キハダを煎じ、病人に飲ませて救済したと記されている。それ以来、「陀羅尼助(だらにすけ)」、「百草」、「練熊」などの名称で人々に愛用されてきた。樹皮の薬用名は黄檗であり、樹皮をコルク質から剥ぎ取り、乾燥させると生薬のの黄柏となる。黄柏には強い抗菌作用を持つといわれる。チフスコレラ赤痢などの病原菌に対して効能がある。
 『長野県史民俗編』に次のような記述がある。
きはだを主成分とし、幕末に普寛行者が御夢想で製法を知ったといわれる百草丸は小谷文七を元祖とする。木曽の百草とかダラスケとかいわれ、胃腸薬として現在でも愛用されている。切り傷、はれもの、やけどの外用薬としても効き目があり、薄めて目薬として利用されることもある。
もぐさ(3)
 東京の人には「もぐさえん(百草園)」といえば、多摩丘陵の日野市にある散歩には格好の庭園。正式名称は京王百草園。園内には、牧水の歌碑、芭蕉の句碑などがあり、梅の名所で毎年2月から3月にかけ梅まつりが開かれる。百草八幡神社源頼義が戦勝を祈願したと伝わり、百草観音堂は武相四八観音の第九番札所である。
 厨子の中に本尊の聖観音立像と十一面観音立像が安置されている。聖観音立像は木造で古色蒼然としているが、宝冠の作りから見て昔は美しい観音様であったろうと思われる。日野市指定有形文化財で、写真にはない。厨子の外側には大日如来座像と阿弥陀如来座像がある。また、二体の等身大の僧形像も安置されている。本尊は百草観音と呼ばれ、平安時代に京都で造られた千体仏の一体ではないかといわれており、その由来は不明。