袖振り合うも多生の縁:中根半嶺と金玉均、そして福澤諭吉

 池袋に高田藩主榊原家の菩提寺本立寺がある。戊辰之役で高田藩は「哀訴諫諍(あいそかんそう、「哀訴」は朝廷に徳川家の存続を願い、「諌諍」は徳川慶喜に朝廷へ謝罪するよう諭す)」の藩是を定めたが、これを批判した江戸藩邸藩士たちが「神木隊」を結成し、上野から箱館(現函館)五稜郭まで戦った。榊原家の「榊」から命名された「神木」隊26名の戦死者の碑が本立寺にある。「神木隊戊辰戦死之碑」は中根半嶺の揮毫である。

 大手町小学校に残る額「脩道」は中根半嶺の書で、中根家は三代にわたる書家の家系。中根半仙(1798-1849)は江戸後期の漢学者で、高田藩医、漢詩で名をあげる。その子の中根半嶺(1831-1914)は幕末から明治の医師、書家。幕府の医学館で学び、父の職を継いで高田藩の侍医兼書道師範となった。彼は隷書を得意とした。中根半湖(1871-1938)は祖父半仙、父半嶺と三代続く書家の家に生まれ、父半嶺に書を、漢学を島田篁村に、漢詩を大沼枕山に学び、隷書と楷書を得意とした。

 さて、北千住にある慈眼寺の「鐘楼建築記念碑」の撰文は朝鮮の革命家で当時日本に亡命していた金玉均、揮毫は中根半嶺。朝鮮から亡命していた金玉均と書を生業にしていた中根半嶺は袖振り合う程度の縁で、お互いへの影響などほとんどない。まして、半嶺と福澤諭吉は縁さえないが、福澤と金玉均となると、二人の間には深い因縁があり、甲申事変、そして、金の処刑を通じて、時事新報での「脱亜論」へと繋がっていく。この辺の事情を見直してみよう。


 金玉均(キム オッキュン1851-1894)は李朝の開化派政治家として独立党を指導。1872年に科挙試験に合格して官僚となり、1881,82年に日本を訪問、日本にならって改革を進めることを決意する。1884年甲申政変を起こし、日本と結んで開化派政権を樹立したが、清の干渉によって失敗し、日本に亡命した。その後、1889年上海で暗殺された。

 甲申事変に失敗し、独立党幹部の何人かは捕らえられ、殺害されたが、金玉均、朴泳孝ら9名が脱出し、日本船に収容されて亡命した。日本政府はやっかい者扱いしたが、当時朝鮮の開化を応援していた福沢諭吉金玉均らを自宅に匿う。その後、金玉均は日本政府の命令によって小笠原に移送され、そこで体調を崩し、北海道に移された。ようやく東京に戻った金玉均は、清国の李鴻章に会い、朝鮮改革を訴えようと上海に渡った(上記の千住の碑は東京にいた頃のもの)。だが、上海に着いた翌日、日本人経営の宿「東和洋行」で銃弾を受けて倒れた。

 李鴻章金玉均の屍体を朝鮮に送る。朝鮮政府は漢江の江岸にある楊花鎮で屍体に「凌遅処斬」(あらためて体を切り刻むこと)の惨刑を加え、「謀叛大逆不道罪人玉均」と記した札を立てて、さらしものにした。日本では「親日派金玉均の死は大々的に報じられ、追悼義金の募集などが始まり、清国の処置に非難が高まった。そしてその5ヶ月後に日清戦争が勃発する。
 金玉均の日本での交友関係は広く、また書家としても名高く、その書は生活の費えとなった。その書は人気が高く、日本人にも知己が多かった。朝鮮の文明開化による自立を支援してきた福沢諭吉は1885年(明治18年)2月23日と2月26日の時事新報に「朝鮮独立党の処刑(前・後)」という論説を書き、李氏朝鮮凌遅刑という残忍な方法で処刑したことで、朝鮮の体制を激しく非難した。脱亜論はこの出来事の約3週間後に書かれ、その内容は「朝鮮独立党の処刑(後編)」とほぼ同じ。

 福澤は1880(明治13)年新たに発行される政府広報誌の編集者への就任を要請され、その準備を進めていたが、翌年参議大隈重信の失脚により立ち消えとなった。1882(明治15)年この政府広報誌発行のために準備していた資材や人材を投入して、「時事新報」が創刊される。この間、福澤のアジア観が一変する事件が朝鮮で相次いで起こる。

 明治16年の半ばには30余名の留学生徒を慶應義塾に受け入れ、政治学を通じて人権の重要性を教えた。さらに、朝鮮の資金借り入れ交渉に日本にやってきた金玉均をバックアップするため、朝鮮への直接投資や民間貸付をすすめる論説を時事新報に掲載したが、清との摩擦を避けた日本政府の消極策によって交渉はうまくいかなかった。独立党のクーデターが決行されたのは明治17年12月4日で、これが甲申事変である。一旦はクーデターは成功したかに見えたが、12月6日には袁世凱率いる清国軍に敗れる。時事新報の論調転換のきっかけは2月23日の「朝鮮独立党の処刑」である。処刑に対する激しい論説が続き、遂に「脱亜論」に至る。 

 第2次世界大戦後10年間の「福澤研究」を行ったのが丸山真男。彼は主体的な独立をめざし、社会における多元的な自由を尊重した市民的な自由主義者として福澤を高く評価した。一方、朝鮮領有と中国分割を積極的に唱えた侵略的思想家として福澤を捉えたのが遠山茂樹。遠山は1951(昭和26)年の『福澤研究・日清戦争福澤諭吉』のなかで福澤の朝鮮観、中国観を取り上げ、アジアの隣邦を犠牲にすることによって、西洋列強に伍する日本のナショナリズムを広めた侵略的思想家として福澤を描いている。

 いずれが正しい見方かを考えるために、福澤の脱亜論を要約しておこう。

交通の利器を利用して西洋文明が東漸し、グローバルに文明化が始まった。文明は麻疹のようなもので、それを防ぐ手立てはない。日本では開国を機に文明化が始まり、幕府が倒れ、新政府の下で独立し、「脱亜」という新たな機軸を打ち出した。不幸なことに近隣の中国、朝鮮は古風旧慣を断ち切れず、二国には独立を維持する方法がない。西洋の植民地となり、国が分割される。隣国は助け合うべきだが、西洋から見れば日支韓は隣接しているため、同一視され、それは日本の一大不幸である。今の日本には隣国の文明開化を待っている猶予はない。西洋人が接するように、心において悪友を謝絶するしかない。