好奇心旺盛な子供の疑問、あるいは禁断の疑問

 人だけでなく、どんな動物も植物も、みんな生きている限り、「生きる」ために一生懸命であり、生きることを肯定的に見ることに疑問の余地はないと思われてきた。だが、一方では規則的な世代交代が繰り返され、生物の集団が維持され、社会が存続することへの期待はすこぶる大きい。食べ物は、規則的に収穫されるが、そのためには規則的に生産されなければならない。
 一個体は一途に生きることを本能とし、集団は安定的な世代交代を繰り返して永続することが特徴になっている。この二つの本能と特徴はよく考えてみると、互いに両立しないものである。個体の永遠の命と集団の永続性は互いに矛盾するのである。つまり、個体が生き永らえると、集団は若い命を供給できなくなり、集団が規則的に若返ると、個体は生き続けることができないことになる。つまり、集団の安定的継続は個体の規則的な死を前提にしているのである。
 早熟な小学生ならこの位の疑問を平気で思いつき、その答えを見つけようとするのではないか。残念ながら、今の私たちはこの生意気な小学生に十分納得できる答えを用意できないのである。
 医療は個体のため、それとも集団のためかと問われ、医者を含め、大抵の人は疑いなく両方だと答える。だが、上の節の内容を受け止めるなら、医療が両方の為だという答えはあり得ない。個人に対する医療と集団に対する医療は、それゆえ、違った目的や内容をもつことになる。医の倫理への関心が高まったのは20世紀後半だったが、個人の場合と集団の場合で異なる倫理基準があるのかと問えば、実に曖昧で、倫理のターゲットが個人なのか集団なのか不定の場合がほとんどだった。
 20世紀以降の医学の進歩は、人の生と死に関わり、それまで神の領域だった生と死を人の手に委ねることになった。個人と集団の間をつなぐのは生と死である。個人と集団の間にある因果的な関係は個々の生と死であり、集団の変化はメンバー個々の生と死によって引き起こされる。
 「個体は自らの意志で生まれるのではないが、自らの意志で生きようとする。個体は自らの意志で死ぬのではないが、自らの意志で生きようとする。」というのがこれまでの通り相場だった。だが、医療技術の進歩はこの言明を否定するところまで来ている。不死の願いは集団の永続性に抵触し、個体の不死が集団の絶滅を結果することになりかねない。
 「死の倫理」と「集団の倫理」は違うものだが、いずれも同じようにタブー視されてきた。それらは死の礼賛や集団への自己犠牲という禁忌概念として、忌み嫌われてきた。倫理はもっぱらよく生きるための作法と考えられ、扱われてきた。集団や群を優先することは危険思想だというだけでなく、科学的にも信用できない概念(例えば、群選択)と捉えられてきた。
 賢い子供たちはこのようなこれまでの大人の対処にどのような反応を示すのだろうか。個人主義、利己主義、自我など、いずれも「生きる」ことを前提にした思想や概念である。「死ぬ」ことを基本に置いた倫理や道徳は果たして宗教なのだろうか。そもそも「死、死ぬ」を前提にすること、認めることはどのようなことなのか。かつての因果応報、諸行無常、盛者必衰、無常観といった仏教思想はどれだけ倫理として精緻化されたのだろうか。残念ながら、倫理思想としては洗練されず、宗教的な信念や感情を文学的に表現するレベルで終始したのではないか。
 最後に、あなたなら鋭い子供たちの疑問にどう答えるだろうか。