生と死の適応度

(高校生A君の相変わらずの、向こう見ずな主張です。)

 「死に物狂いで、命がけの賭けにでる」、「生死を賭けて取り組む」、「一か八かで挑む」場合、生と死はどのような関係にあるのだろうか。

 誰もが認める生物学の事実がある。生物の各個体(individual organism)は自らのコピーをつくるために生存しており、コピーができれば、生存している理由がなくなる。このように強調したのがドーキンスの名著『利己的な遺伝子The Selfish Gene)』で、遺伝子の眼からは自明の事実に過ぎない。親子関係、血縁関係は子孫を存続させるための不可欠の関係であり、それら関係を使い、命を賭けて子孫を残すことは生物個体の遺伝子に仕込まれた必要不可欠な情報である。だから、「命を賭けて、命を産む」のが生物であり、それが生物の宿命である。

 これほど誇張せずとも、かつては人間社会でも武士の主従関係や軍人の行動規範など、死を賭けた事柄が多かった。それらは自己犠牲の典型として崇高な行為とみなされていた。そして、それらのすぐ傍には倫理や宗教があった。それらが重なり合って、倫理的な振舞い、宗教的な行為は自己犠牲を色濃くもつことになった。だからなのか、宗教は歴史的に殉教や聖戦と結びつき、時には殺戮と同居してきたし、倫理と政治は強く結びついてきた。

 「死に値する事柄」とは「生きるに値する事柄」でもあることは、生物世界を眺めれば、すぐにわかる。誤解を恐れずに言えば、「死に値する事柄」=「生きるに値する事柄」なのである。自らのコピーの作成は正に自らが生きている目的である。生存と生殖は「生きること」と「産むこと」であると今更確認する必要もないのだが、産むことは正に生きるに値することなのである。生きることと死ぬことが同じ事柄の別の側面として、しかも相補的な事柄として巧みにバランスがとられているのが生き物の世界の生態のエッセンスである。生きることと死ぬことの様々な姿の集まりが生態となり、それこそ生死のドラマとなって、生き様、死に様を積み重ねてきた。

 このように生死のつり合いがとれているのが生物社会だが、そのつり合いがとれておらず、一方だけが状況毎に強調されてしまうのが人間とその社会の姿で、人間社会が本来的にもつ異常さ、偏りを見事に示してくれている。人間社会では生と死は常に相補的という訳ではなく、生が肯定的に称賛され、追求されるのに対し、死は否定的で、回避されるべき事柄として先延ばしされるのである。私たち自身の生への執着、死への嫌悪が意外にストレートに社会に反映されている。私たちの社会では生と死はまるで異なる、相反する事柄だと取り扱われてきた。一体誰がこのような偏った規定を認めたのだろうか。生と死が対立するような関係と受け取られ、死を克服し、生を追求するという形がもっぱら肯定されてきた。その代表例は宗教、そして、医療。死を受容し、死を助ける医療はまだ始まったばかりである。人間は貪欲、特に生に対して貪欲で、そのためか、生の医療と死の医療の調和はまだこれからの課題である。

 「死を賭して戦う、命を懸けて働くことはレトリックである」というのが人間とその社会の一般的な習慣で、これはまだ続くことだろう。だが、生物社会ではそれはレトリックではなく文字通りの内容をもってきた。オスは家族のために死を賭して戦うのであり、メスは自らの命を賭して子供を産むのである。その結果が生か死かいずれであっても、それは子孫の存続にそれぞれ貢献するのである。この包括的適応度の高い行為、つまり、自己犠牲は人間の場合もしばしば見られ、文学作品や映画などで人々の心を魅了してきた。