科学的な説明

 アリストテレスは自然を因果的に説明しようとした。しかし、その「因果的」説明は彼の四原因すべてを含むものだった。機動因による因果的説明は運動変化の科学的な説明としてニュートンによって初めて具体化された。それは仮説演繹法という形式をとり、さらに演繹の中では数学的な式の変形と計算が主要な役割を占めていた。現在では当たり前の自然法則と初期条件による説明の構図が確立する。この構図をまとめるなら、次のように表現できる。

初期条件-運動方程式-解-(数学レベル)
原因-因果法則-結果-(物理レベル)
前提-論理法則-帰結-(推論レベル)
言明-「ならば」-言明-(言語レベル)
ニュートンの説明方式は各レベルを総合したものであり、以後の科学的説明の原型となった。

 では、ニュートン力学によって確立された科学的説明はどのような仕組みになっているのか。ニュートンの説明は、物理システムについて自然法則と初期状態から数学的にシステムのその後の状態を計算するものだった。科学は経験的であるが、推論なしには科学とは呼べない。その推論によって問題を解くことを数学的に精巧に仕立て上げたのが力学であり、数学的な推論や計算から新しい自然観が生まれて行った。ラプラスの魔物はこのような条件を普遍化することによって普遍的決定論を主張したのだった。この点では科学的な説明も哲学の伝統的方法をより精緻に実行したものである。推論が演繹として正しいことと、その内容が経験的に正しいこと、適切であることとは違っていた。科学的説明ではこの違いが鮮明に出てくる。そして、当然ながら推論の形式ではなく、その内容こそが科学者にとっての関心事なのである。完成された科学理論と問題を追求する活動は科学的説明を異なったように捉える場合がある。完成された理論ではその形式的な側面が強調されるし、問題追求の現場では内容がもっぱら重視される。それぞれの場合で、科学的説明の特徴づけは異なってくる。さらに、説明されるものがどのような役割を果たすかも考慮するなら、科学的説明について次のような三つの異なる見解が考えられている。

(a) 推論としての説明 (Hempel, Oppenheim):説明は推論の一タイプであり、説明される現象は自然法則を含んだ前提から結論として演繹される。
(b) 因果関係としての説明 (Salmon, Lewis):説明は説明したい現象を引き起こす様々な原因を記述することである。
(c) 実用としての説明 (van Fraassen):ある現象の説明とは、それが他の現象より起こる可能性が高いことを導き出す情報の集まりである。

 謎や驚きに立ち向かう点では科学も哲学も同じであり、したがって、その努力が同じような様相を呈するのは当たり前のことである。哲学が理論である、あるいは活動であると異なる仕方で特徴づけられるように、科学的説明の特徴づけ方も複数ある。
[推論としての説明]
 まず、(a)を見てみよう。これは説明の形式的な特徴から出てきた見解である。説明に使う前提条件と自然法則は説明項、説明される現象は被説明項と呼ばれ、法則を含んだ演繹としての科学的説明は次のような構造をもつ。

C1, ... , Cn [前提条件]
L1, ... , Ln [自然法則]
E [被説明項]

説明項に自然法則が含まれず、例えば、法律の条文が含まれていれば、法廷陳述に使うことのできる文が被説明項として得られるだろう。自然法則を含むという点を除けば、上の図式は演繹的な推論と同じ構造をもっている。したがって、自然法則を含むことが科学的説明の特徴ということになる。その自然法則は、普遍的で、個別的な対象を含まず、純粋に質的な述語だけを含んだ真なる言明である。ヘンペルとオッペンハイムの説明理論は上の図式から、説明は推論であり、前提条件と自然法則から現象が起こることが演繹されるという形で説明や予測がなされる、という特徴をもっている。また、説明と予測は原理的に区別がなく、自然法則は因果過程を記述する必要は必ずしもないので、その場合、説明において因果性は主要な役割を演じないこともわかる。
 ヘンペルとオッペンハイムは統計的な説明も科学的説明の一つとして認める。この説明は統計的な法則と初期条件から特定の出来事についての言明を高い確率で導き出すもので、次のような図式で表現できる。

C1, ..., Cn
L1, ..., Ln [p(E) = r](pは確率を表す)
E

確率p(E) が十分高い値なら、説明項は被説明項に対し、確実ではないが、十分信じ得る根拠を与える。

(問)説明が推論であることを使って、説明と記述の違いを述べなさい。
(問)被説明項が確定的な場合と確率的な場合の説明の違いを説明しなさい。

 ヘンペルとオッペンハイムの考えは力学を想定すれば全く正しいように見える。だが、推論としての科学的説明には幾つかの難点がある。代表的な二つの難点は次のようなものである。
(1)説明と予測の違い、内容の関連性
説明と予測は形式上区別がないというのがヘンペルとオッペンハイムの考えだが、二つが実質的に異なる場合があり、推論としての説明ではその違いが表現できない。気圧計の値が下がると、台風の接近を予測できるが、台風が接近していることから気圧計の降下も予測できる。しかし、いずれも説明にはなっていない。というのも、両方ともそれまでの気象条件から説明されるからである。また、説明や予測が内容から独立に特徴づけられていることから、関連のないことまで説明に含まれる場合がある。例えば、ピルを飲んでいる男は誰も妊娠せず、太郎がピルを飲んでいるから、彼は妊娠しないと演繹できる。しかし、これは彼が妊娠しないことの説明ではない。彼は男で、そもそも妊娠しないからである。いずれも形式的な推論の特徴付けだけからは識別できない事柄であり、それゆえ、推論としての説明では不十分である。
(2)低い確率の出来事の説明
 白血病になったことは、その人が原爆実験地から数キロのところにかつて住んでおり、そのような場所での放射能被爆白血病の発症の確率を高めるということから説明できる。同じ場所に住んでいた1,000人中1人が白血病になった。しかし、そのような場所にいたことのなかった人の場合は、10,000人に1人しか発症していないことから、低い確率であっても説明として認めるだろう。これは喫煙と肺ガンの場合も同じである。ある人が肺ガンになったことを40年間毎日二箱のタバコを吸い続けたからであると説明する場合、実際はそのように吸い続けた人の100人に1人しか肺ガンになっていないとしても、そうでない人に比べて発症率が高いことから、タバコが原因であるという説明を認めてしまう。これは統計的な説明につきまとう基本的な問題である。100人から1人しか選ばれなくとも、その1人に選ばれないとは限らない。このようなことから、統計的な説明や予測は何を説明、予測しているのか曖昧なのである。

 この難点に対する批判は二つに分かれる。一つは反例を認め、説明項は被説明項の原因に言及しなければならないとするもので、それが(b)の因果的説明である。
[因果関係としての説明]
 (b)の因果関係としての説明を見てみよう。それによれば、説明は認識レベルで特徴づけられるのではなく、世界の出来事の間で成立する関係として特徴づけられなければならない。出来事間の適切な関係の候補は因果関係である。説明と予測の関係も因果関係をもとにすれば、区別できる。推論としての説明がもっていた上述の難点はそれぞれ、非対称性(原因と結果の違い)、無関連さ(統計的結果の確率の低さ)とまとめることができる。 この難点に対してサーモンは、現象を説明するのはそれを予測するのに十分な情報を与えることではなく、その現象の原因についての情報を与えることであると考えた。サーモンによれば、説明とは自然法則を前提に含む推論ではなく、ある出来事の因果的歴史についての統計的に適切な情報の集まりである。彼は因果的な情報が説明に必要である理由を次のものと考えた。
  説明の情報の初期条件は被説明項より先に生じなければならない。
  法則から演繹できるすべてが説明にはならない。
 サーモンの因果的説明は次のような説である。

1.統計的関連:説明項Cは被説明項Eの確率を高める、つまり、 p(E|C) > p(E)。((P(A | B)は条件付き確率と呼ばれ、Bが生起するときのAの確率である。)
2.因果過程:説明項と被説明項は共に異なる因果過程の一部である。
3.因果的相互作用:因果過程は相互作用することによって問題の出来事Eを生じさせる。

ここに登場する因果過程とは何か。まず、それは連続的な時空の領域での出来事の系列であり、情報を伝達できるものである。連続した出来事の系列には光のビーム、壁を動く光、投げられたボール等がある。この中で情報を運ばないものがある。壁の光や影は情報を運ばない。これらは因果過程から排除される。情報伝達はある過程の離散的な段階の間の連結ではなく、その連続的過程そのものの性質である。
 サーモンによれば、二つの過程の性質の間に一致や相関があれば、その一致や相関を説明する二つの過程に共通の出来事があり、それが「共通原因」である。肺ガンになることCとニコチンを吸収することNの間に
p(C|N) > p(C)
の関係があるとき、これら二つの出来事の共通原因は長期間に渡る喫煙Sである。
p(C|N∧S) = p(C|S).
上の関係は「SはNからCを遮る(S screens C off from N. Sがあると、Nは不用になる。)」と言われる関係である。それは「共通原因」の正確な定義の一部であり、 p(A|B) > p(A)のとき、 CがAとBの共通原因とは次の条件が満たされる場合である。

p(A∧B|C) > p(A|C)p(B|C)
p(A∧B|¬C) = p(A|¬C)p(B|¬C)
p(A|C) > p(A|¬C)
p(B|C) > p(B|¬C)

この因果説にも難点がある。それを二つの例で見てみよう。恒星は進化するが、その崩壊が止まる。なぜか。パウリの排他原理(Pauli Exclusion Principle)を考えると、さらに崩壊が進めば、同じ状態を占める電子が存在するようになって、排他原理に違反する。だから、崩壊過程が停止する。これが通常の説明である。ここで排他原理は崩壊を止めることの原因ではなく、崩壊が止まることを予測するだけである。恒星が崩壊を止めるのはそれ以上の物理的な変化が不可能であるという否定的な情報からである。否定的な情報は原因にはなれず、因果過程の最終点を描くだけである。さらに、量子力学にはサーモンの理論に合わない例が多くある。サーモンの見解では科学の説明は共通原因による説明であり、時空の連続的な変化を前提にしている。だが、この連続性はミクロレベルでは成立しない。

(問)二つの共通原因の共通原因は元の出来事の共通原因だろうか。

[実用としての説明]
 推論としての説明への2番目の反対意見はフラーセンによるもので、説明は「なぜ」という問いへの適切な答えである。その説明が良い説明であるのは、推論として正しいからではなく、説明を受ける人々の興味といった背景知識に依存している。例えば、「なぜ次郎はミカンを食べたのか」という問に対して、背景知識の違いから問い方が複数考えられ、そこから複数の答えがあることになる。

(太郎ではなく)なぜ次郎はミカンを食べたのか
(それを描くのではなく)なぜ次郎はミカンを食べたのか
(リンゴではなく)なぜ次郎はミカンを食べたのか

これらの問は状況に応じて異なり、当然それに応じて異なる答えを要求している。したがって、「なぜ」という問は、問う対象が存在し、「なぜ」が何を聞いているか明瞭であり、適切さの基準が想定されている必要がある。このようなことは推論としての説明からは導き出せない。