人口問題を斜めから見る

 人口が増えたり減ったりするのは自然の摂理に反することではなく、それゆえ、人口増減自体は科学的な問題ではない。この科学者の公式見解に対して、異論や反論がすぐに噴出する。絶滅種や絶滅危惧種、例えば、トキやライチョウに関して、極端に個体数の少ない集団は守られるべきであり、そのために科学的な知識を総動員すべきだということになっている。また、知性をもつクジラもイルカも捕獲すべきではないということになっている。このようなことは今では動植物についての常識でさえある。一方、子供をつくるか否かは自由であり、強制されるものではないという常識もある。人口減少社会ではこの常識がどのように評価されることになるのだろうか。これらの例だけでも人口問題は環境問題に似て、人の判断や価値評価が入り乱れて存在する領域である。科学的な人口動態研究と社会の中で直面する人口問題は医学と医療と同じような関係にあり、それゆえ、要注意なのである。
 「人口を増やすにはどうすればいいのか」という問いは、「火打山ライチョウを増やすにはどうすればいいのか」によく似ている。ライチョウ増殖計画にライチョウの自由意志は誰も考慮しないが、人が子供をつくる計画に個人の自由意志は大いに重要で、それは考慮されなければならないことになっている。ニワトリもブタも、その増殖は私たちが管理する中で実行されるが、人の出産は誰かが管理する増殖計画に基づいて行われるものではなく、当事者の自由な決定によって行われるのが常識になっている。
 何かが原因になって、その結果として人口の増減が生じる。だから、人口を増やす、あるいは減らすことを目標に置くためには、人口増減の原因をしっかり知っていなければならない。だが、これは相当に厄介なことで、人口増減の原因は意外に見えにくく、通常は複数の要因が重なり合っているだけでなく、状況に大きく依存してもいるのである。例えば、平和時と戦時、安定と不安定、裕福と貧困のいずれの場合により多くの子供が生まれるのか。これまでは、戦時、不安定で貧しい場合の方が多くの子供が生まれてきた。人は不安定な世界で安定して子孫を残すために多くの子供をつくる戦術をとってきたのである。この解答は進化生物学的には頷けるのだが、個人の自由意志で子供をつくるという原則が実は生物学的な本能の前では掛け声に過ぎないことを見事に示している。
 「自由意志で子供をつくる、計画的に出産する」ことは自然的なことなのか、反自然的なことなのかは、奇妙に響く問いのように思えるが、妊娠中絶に関する異なる立場がそれを見事に表してくれる。自由意志を重視するなら子供を産む、産まないは自由に決めることができるのだから、妊娠の中絶も自由な筈だが、それに反対する人たちがいて、彼らはそれを神の意志に反することで、自然の摂理にも反すると主張する。
 さらに、性選択(sexual selection)は自然選択(natural selection)とは違う側面を持っている。私たちは性選択の仕組みを研究し、それまでは神の領域と見做されてきた誕生と死亡を臨床的に扱うようになっている。いずれの領域でも当事者の自由意志がどれだけ医療の倫理に反映されるかはグローバルな基準にはまだなっていない。