神々と人々の絆(2):神功皇后と住吉三神

<『日本書記』や『古事記』をそのまま読めば…>
 神功皇后は第14代仲哀天皇の后であり、第15代応神天皇の母親です。朝鮮半島の制圧を神より命じられたにも関わらず、それを無視して死んだ仲哀天皇に変わり、妊娠したままで朝鮮へ出兵し、その後出産したことから、聖母であり武芸の神として祀られています。応神天皇が八幡様と同一視されることから全国の八幡神社で、よく一緒に祀られています。また、三韓出兵(朝鮮への出兵)の際に関わった住吉三神宗像三女神と一緒に祀られることも多いようです。
 彼女は夫である仲哀天皇の死後、応神天皇を生んでいます。本来、仲哀天皇の子供であるにも関わらず、『古事記』、『日本書記』の中でも神功皇后は神との間に子を作ったという聖母の扱いに変わり、応神天皇は神と人の子ということになっています。これは応神天皇が長子ではなく、異母兄が何人かいることから、応神天皇の正当性を主張するためだったと思われます。もっとも、女性が神との間に子供を作り、父親の影が薄いというのはキリスト教でも同じで、よくある神話・伝承のパターンの一つです。
 九州南部の豪族、熊襲を討伐しようとした際に、神功皇后が占いをすると、「西方に金銀豊かな国がある。そこを服属させて与えよう」と神託がありました。ところが仲哀天皇はそれを信じず、予定通りに熊襲と戦争を始め、急死してしまいます。そこで、もう一度占い神意を伺うと、「皇后の腹の御子が国を治めるべき」と神託があったのです。神功皇后は神に名を尋ねると、「神託はアマテラス大神の意思、伝えるよう命じられたのは住吉三神である」と答えました。
 そこで、神功皇后住吉三神とともに出兵し、新羅を平定。朝鮮側の資料にも「倭人の兵が来た」という記述が多くあり、出兵があったのは事実。妊娠してから朝鮮半島に出向いた神功皇后は出産を遅らせるために、美しい石を腰につけて出産を遅らせるように祈ったところ、筑紫国に帰国してから出産できるほど遅らせることができました。石を使って産道を塞いで出産を遅らせたとあります。妊娠期間は15カ月。帰国し、筑紫の国で出産。近畿に帰る途中で、応神天皇を亡きものにしようとした異母兄の忍熊皇子、香坂皇子を破っています。そして、幼い応神天皇摂政として政治を行いました。
 九州に帰国後、8本の幟を立てたことから、八幡信仰が始まったという伝承がありますが、八幡様はそれ以前からあった地域の信仰とも言われています。

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日本初の肖像画紙幣:神功皇后

<『日本書記』や『古事記』を批判的に読めば…>
 仲哀天皇から応神天皇への代替わりが、クーデターによる王朝交代だった。このとき、仲哀の九州遠征に同行せず大和に残っていた息子たちを滅ぼして権力を奪ったのが、神功皇后と建内宿禰(タケシウチノスクネ)である。
 「三韓征伐」とはどんな事件だったのか。『古事記』によれば、神功が軍船を整えて新羅に行ったら、一戦も交えることなく、向こうが勝手に恐れをなして降伏してしまったというのである。(『日本書記』にもほぼ同じ内容の物語が記されているが、こちらは新羅だけでなく、高句麗百済まで降伏してしまったことになっている。)こんなことは不可能。確かに『記紀』に朝貢の記載があるが、それだけでは服属の証拠にはならない。『記紀』は、天皇家中心の史観に貫かれ、『記紀』は古来の伝承に対して、天皇家に「有利」に改編することはあっても、「不利」に改編することはなかった。天皇家は遥か昔から、この日本列島の中心の存在という基本思想が『記紀』を貫いている。これが歴史的な事実以前の、世界観、歴史観の大前提なのである。だから、中国や新羅が日本の天皇家に臣従し、朝貢してきたように書いてあっても、朝貢の事実を示している訳ではなく、『記紀』の史観に従った表現の仕方なのである。明らかに、中国の皇帝が「東夷」の蛮族と見なしていた日本に朝貢してくるはずがない。
 『記紀』の三韓征伐が意味しているのは、神功皇后新羅を訪問し、このときから天皇家新羅との国交が始まったということである。では、なぜ新羅との国交が必要だったのか。神功皇后と建内は、仲哀の熊襲征伐に従って九州まで来ていた。仲哀天皇をうまく始末したのは良かったが、次は大和に戻って仲哀の息子たちを討ち滅ぼさなければ自分たちに未来はない。だが、まだ熊襲との戦争は続いていて、簡単に敵に背を向けて帰るわけにはいかない。追撃を避けるには、熊襲との休戦が不可欠。『日本書記』では、自分を良く祭れば新羅は従い、また熊襲も自ら従うだろう、と言っている。この両者の間には何らかの強い結びつきがあり、新羅との友好は熊襲との関係改善にもつながることを示唆している。だから、神功皇后熊襲との戦争状態を終わらせて大和での権力奪取に集中するため、熊襲のバックに控えている新羅との友好関係を確立しようと海を渡ったのである。それは、「征伐」とは正反対の、友好を求める外交交渉だった。

 日本が神国であり、神々の加護によって外敵から守られてきたという物語の最初に一つが神功皇后三韓出兵だった。『記紀』の物語が謡曲『白楽天』にまで及ぶのだが、それは次回以降の話としよう。