私が生きる世界(7)

 9 意味、情報、知識

 因果的な生活世界と違って、意味の世界は因果的ではないと考えがちである。だが、よく考えてみると何かを解釈し、それを有意味なものとみなすには、因果的であることが不可欠で、意味をもつためには因果的である必要がある。生活世界の変化が意味のある変化であることを示そうとすれば、それが因果的な内容をもつ変化になることを忘れてはならない。つまり、因果的であることと有意味であることはほぼ同義な場合が多いのである。個々の意味の間の関係、つまり、意味の違いは当然ながら因果的ではない。言い換えれば、辞書に載っている単語間の関係は因果的ではない。単語間の関係は意味論的規則に従って考えられているが、個々の単語の個々の意味は因果的内容をもっている。

 「情報」という言葉が生活世界に入り込んで来たのは20世紀になってからだが、今では情報概念なしには私たちの生活を考えることができないほどに多用され、重宝されている。情報は現代生活を支える重要な要素であることは疑いない事実となっている。情報概念を陰で支えている一つが前回述べた確率・統計である。物体の物理量のように、情報の情報量が考えられて、物理量や統計量と並んで、世界を知り、理解するための重要な指標となっている。情報は私たちが「使う」知識のことであり、その本性上プラグマティックなものである。Xの内容を問うことをしないで、そのXを使って仕事をするということは、Xを知識として探求することではなく、Xを情報として使うことである。「Xとは何か」ではなく、「Xで何ができるか、何をするか」が情報としてのXの意味なのである。

 このように考えるなら、情報と知識の違いは次のようになるのではないか。使う知識が物理的対象としての情報であり、探求される知識が研究者の対象となる知識であり、それぞれの本性を解明するのが認識論の対象である。この区別を徹底的に明らかにすることによって、情報や知識についての認識論が如何に無視されてきたかが明らかになるだろう。私たちが何かに気づき、知る、わかる際の「知る、わかる」は探求だけでなく、「使う」ためでもある。日常生活では使う場合の方が圧倒的に多いだろう。使われる名辞や命題が情報をもち、探求される名辞や命題が知識となっていく。

 使われる名辞や命題は因果的な世界の中で使われ、因果的な意味を使って解釈される。探求される名辞や命題は因果的な世界から抽出され、命題の整合的なシステムとして論理的にまとめられ、表現される。つまり、知識は因果的な世界から独立して扱うことができるが、情報は因果的な世界に埋め込まれた仕方でしか使われない。情報に関する知識と知識の情報は前者が論理的に、後者が因果的に扱われるという大きな違いをもっている。

 いずれにしても、情報と知識、そしてそれらの間の関係を明確にするための認識論が求められている。