私が生きる世界

 私はどんな世界に生き、暮らしているのか。人が生活する世界とは、そこで生まれ育ち、楽しみ、苦しみを経験し、家族や友だちがいる環境であり、宗教、科学、哲学が探求してきた自然、社会、精神を含んだ世界である。その生活世界はどのようにつくられ、変えられ、如何なる特徴をもっているのか。長く生き続けてきた私が今更自分が生きてきた世界を振り返っても詮無きことなのだが…
 携帯が鳴り、友人からのメールを読み、パソコンの画面からホテルを予約し、翌日にはニューヨークで仕事をこなし、その後美術館で絵画を楽しむ、こんな生活世界とは一体何なのか、その正体を探ってみたい思いは年齢には関係がなさそうなのである。

1因果的な生活世界
 私たちはどんな世界で生きてきたのか。こんな問いは生きる糧にはならないが、生きる意義くらいなら示唆してくれそうである。神話や物語に強く惹きつけられ、それが一生を左右することはよく聞く話で、主人公の生き方に感動し、同じように生きたいと望むのは、決して珍しいことではない。生きることが因果的な出来事を因果的に経験することでないのであれば、誰も物語に感動などせず、文学など生まれることはなかったろう。物語の存在は、生活世界そのものが因果的であることを示す状況証拠ともいえるもので、物語と生活世界は同語反復に近い。因果的な物語に心躍らせ、論証的な説明には退屈するだけという経験を誰もがしてきた。因果的でなければ物語にならないし、経験的な科学理論もこの世界で因果的に解釈できなければ、何を主張しているかさえ不明で、どう使ったらよいのかわからない。生活世界も物語も論理的であるだけでなく、何より因果的なのである。
 私たちが住む世界は徹底して因果的にみえる。だが、私たちの関与や関わりが弱くなったり、なくなったりする場合には因果的でなくても構わないような状況が生まれてくる。関与が弱くなるミクロな世界や関与のない数学の世界では因果的でない世界が可能となってくる。その意味で、因果的であることは極めて人間的と言えるのである。どんな出来事も因果的に起こるゆえに歴史がつくられたと私たちは考え、歴史に重要な役割を与えてきたし、因果応報、栄枯盛衰を経験しながら、誕生から死までの自分の人生を因果的に捉えてきた。そのため、時には「因果的=歴史的=時間的」な現実から逃れ、現実から距離を置くために俯瞰的に世界を眺め直したくなり、それが普遍的、一般的な知識の探求を促したのだと言えなくもない。また、世界を超えた夢の中に逃避することもよくあることである。いずれにしろ、生活世界が因果的であることは紛れもない事実。それゆえ、神話であれ、相対性理論であれ、それを使って生活世界の出来事について述べる場合は同じように因果的に述べることになる。というのも、物理世界に因果的でない変化があったとすれば、それは私たちには不可解であるからである。
 神話、物語にはシナリオがあり、そのプロットは起承転結、生死、始まりと終わり、といった事柄を含み、生活世界を因果的に表現している。プロットは二つ以上の因果系列がどこかで交差し、別の因果系列に切り替わることを示すもので、二つの因果系列の相互作用という複雑な状況を生み出し、それが物語を魅力的に仕立てている。
 さらに、物語の作者は意図的に因果連関の一部を不明なもの、わからないものにすることによって、物語の一部を謎解きに仕立て上げることができる。その謎解きに魅了されてアガサ・クリスティを読む読者は少なくない。とはいえ、日常生活でこの謎が登場すると、それは因果的に不明な出来事、説明のつかない事柄となるから、生活上の大問題であり、場合によっては疑心暗鬼を生み出し、人々の間での争いの原因をつくってしまう。
 生活世界が因果的であるのは私たちの適応の一つと考えてほぼ間違いない。これは極めて蓋然性の高い仮説である。物理理論が因果性を仮定していないことはむしろ普通のことであるが、そのことと生活世界が因果的ということは矛盾しない。

2因果的でない論証とその解釈
 ある事態から別の事態が起こるとき、その経緯が因果的変化と考えられている。同じようにある命題から別の命題が導出されるとき、その経緯は論理的変化と捉えられる。事態を表現したのが言明であるから、二つのレベルの違いは因果的、論理的の違いということになる。因果的な変化を使うか、論理的な導出を使うか、あるいはその両方を使い分けるか、これら三通りの手法を私たちは巧みに使い分けている。因果的な生活世界を冷静に理解するために哲学や科学の知識に頼ることがよくある。その主な理由は、哲学や科学の理論が非因果的なシステムで、現実離れのできる俯瞰的なモデルをつくってくれるからである。それらは基本的な法則や原理を前提にして演繹的に結論を導き出す、という論証からなっているのが普通である。論証は因果的ではなく、論理的である。つまり、論証に登場する言明が論理的な関係で並べられていて、その内容の時間的な関係で並べられてはいない、ということである。理論が生活世界の知覚経験から離れて予測や説明を一般的に展開しようとすれば、生活世界の因果的な変化ではなく、論証を使わざるを得なくなる。
 それが最もはっきり、具体的に現われるのは数学理論である。中学校でのユークリッド幾何学の定理の証明を想い出してみればよい。ユークリッド幾何学の定理、例えば、「三角形の内角の和は2直角である」は平行線の公準と同値かどうかという問題は、二つの言明の間の因果的な関係ではなく、「演繹的」な証明を工夫することによって、同値かどうかという、因果的ではなく、論理的な関係を問うている。論理規則に従う議論の展開は推論、論証、証明などと呼ばれ、腰を据えて、じっくりと議論を進めるという特徴をもち、「因果的な現実からの独立」と呼ぶのが相応しいだろう。論証の展開は因果的ではなく、論理的であり、それゆえ、時間的な変化から独立している。数学の定理はいつでもどこでも真あるいは偽であり、時間的に真偽が変化することはない。
 論理的、数学的な論証は因果的ではないが、日常生活で知識を使う場合、その使い方は因果的であり、世界の変化に上手く足並みを揃えて使わなければならない。因果的に論証結果を使うことと並んで忘れてならないのが、論証結果の世界での解釈、つまりそれがどのような意味や内容をもっているかについてである。世界内での解釈は因果的な変化に矛盾しない解釈でなければならない。論証の世界は因果的ではないが、その論証の結論の解釈、意味は因果的な世界の変化に矛盾せず、それに従うものでなければならない。論証自体は論理的な規則に従うが、論証の結論がもつ内容は因果的な世界で意味をもたなければ何の役にも立たない。
 私たちは論証のために現実離れをし、論証が終わったら、得られた結論を現実の世界に引き戻すのである。

3因果的な変化
 因果的な変化は、時間の幅をもつ変化である。瞬間からなる変化は因果的ではない。意識はその典型例で、意識が持続だとすれば、それは瞬間からなる変化ではなく、持続する変化である。意識の内容は世界の出来事や現象であるが、それらは持続するのである。
 私たちは何の支障もなく、周りを見渡し、何がどんな風に起こっているかを瞬時に掴んでいると思っている。異常がなければ、何かに気づくとはどのような心的状態なのかなど改めて問うこともない。だが、「赤信号に変わった」とわかる、意識することは、赤信号に変わったことに気づくことと同じだから、「変わった」ことに気づくには瞬間では十分ではなく、一定の時間の幅が必要であることに気づく。なぜなら、現象変化は因果的な変化であり、因果的な変化には時間がかかるからである。逆に、「瞬時に」気づくことがどのような気づきなのか大いに疑問をもつべきである。「瞬時に気づく」という表現はレトリックであり、巧みなまやかし表現に過ぎない。変化に気づくには幅のある時間が不可欠で、その幅によって変化が因果的に実現され、私たちは因果的に知覚することができるのである。だから、「瞬間を知る、わかる」という表現は変化に気づくこととは違って、知覚の直接的な結果ではなく、認識論的な虚構、人工的な表現に過ぎないのである。気づく、意識するのは、変化に気づく、意識するのであって、それには時間の幅が必要なのである。
 知覚するという意味での「知る」は、瞬時の情報が基本と言われているが、情報はつくられたもの、それも後からつくられたものである。最初の知覚は変化を仮定した上で、その変化に気づくことである。瞬間は人工的な合成であり、古典物理学の知識をなぞったものに過ぎない。知覚や意識にとっては区間のある因果的な変化が自然の中の所与なのである。瞬時の知覚など何の意味もないどころか、存在さえしない。変化が意味や存在を生み出すのであり、その変化は瞬間によっては表現できないものなのである。
 「意識の流れ」という何とも曖昧で捉えどころのない表現は、それに文学的な意義を感じる人が多いためか、あちこちで使われてきた。だが、それが正確に何を表現しているのか実は誰にもよくわからない。意識が茫洋としている上に、さらに比喩としての流れが平気で組み合わされ、実際のところ何を言いたいのか、意味不明なのである。「記憶の流れ」とは言わないが、記憶を意識した時、その意識は流れないのかと自問すると、それだけで私の意識は混乱するだけで、何の答えも出てこない。だが、有意味な意識には流れる時間、幅のある時間が必要だと言うことを暗示していることは確かである。
 意識は表象からなると思われている。表象は心が生み出したものと主張されると、表象する対象も心の中にあるものとつい即断したくなる。記憶が心の機能の一つだと言われると、記憶内容も心の中にあると断定したくなるのと同じことである。だが、本当にそうかどうかは誰にもわからない。夢の中の飛行機は確かに夢の中にあるが、その飛行機は私が2年前に乗った飛行機だったことがわかれば、その飛行機は心の外に実在する飛行機ということになる。飛行機の像と飛行機は、飛行機のコピーと実物の飛行機の違いなのだが、「飛行機の像は何の像か」と問われれば誰もが「飛行機」と答える筈である。だから、記憶された飛行機が何の像、コピーかとなれば、実際の飛行機そのものなのである。