さて、良寛と一茶の類似した句について考えてみましょう。清貧な良寛の句と貧寒な一茶の句とに類似点が多いことはよく知られています。一茶は、良寛より5年遅れて誕生し、4年早く他界していて、二人は65年間も同時代人として生きました。しかも、良寛は越後の国上山などに、一茶は信濃の柏原に、国を隣にして生活していました。二人が互いに何らかの影響を受け合っていたと考えるべきでしょう。
焚くほどは風がもて來る落ち葉かな (良寛)
焚くほどは風がくれたる落ち葉かな (一茶)
(「もて來る」は動詞「もてく(持て來)」の連体形、「くれたる」は動詞「くる(呉る)」に助動詞「たり」がついて、意味は「与える」。)
上の一茶の句は彼の『七番日記』にあります。また、良寛の句は58歳の時と言われ、一茶の句は良寛の句に4年先行します。この辺の事情は既に御風が述べています。それを引用しておきましょう。
「二句に於ける「もて來る」と「くれたる」の相異についてである。今後者が當時ひろく人口に膾炙した結果良寛の耳にも入り、それが又良寛の口から多くの人々の耳に傳はつたのが事實であつたとして見ても、「焚くほどは風がくれたる落葉かな」と「焚くほどは風がもて來る落葉かな」と全然同一句として見ることは出來ない。「くれたる」が良寛によつて幾度となく口ずさまれてゐるうちに、いつしか「もて來る」と變つてしまつたのだとして考へると、その轉化にはかなり深い意味がある。ちよつと考へると大した相異はないやうであるが、深く味つて見ると僅にその一つの言葉の相異によつて二つの句全體がそれぞれ全く獨立して存在し得るほどの結果を示してゐるとさへ考へ得る。「くれたる」にはなほ自己を主にした自然へのはからひがある。彼の眼に映じた自然はなほ相對的である。しかし「もて來る」には自然が擴充してゐる。主我的なはからひがない。自然は自然である。その恩惠にあづかるのはこちらからである。それに感謝するのもこちらの心からである。そんな風に見て來ると、やはり、一茶は一茶、良寛は良寛だとうなづかれる。」
(『一茶と良寛と芭蕉』緒言(1947、初版1925春秋社))南北書園、
一茶の句の方がより主観的で、自然が意図的に振る舞う様を描いていて、より客観的な良寛の自然観とは違っていると御風はまとめたのですが、私には「もて來る」と「くれたる」とが共に生活に溶け込んだ自然の振舞いに思えて、御風のような主観と客観の違いがはっきりと見えないのです。それよりは、越後と信濃の人々が共有する自然との関わり、生活様式、さらには自然観、人間観、社会観がダブるように見事に表現されていて、むしろ二人の共通点ばかりが目立つのです。より平明な「焚くほどは風が運ぶや落ち葉かな」であっても、同じ自然観を表していると思えるのです。
雪解けの水音が四方に轟き渡り、それがあたかも地震の如しということから「地震滝」と呼ばれ、「地震」と書いて「なゐ」と呼ばれていたことから「苗名(なえな)」に変わり、今では「苗名滝」と呼ばれ、日本の滝百選に選ばれています。1813(文化10)年の春にその滝に心打たれた小林一茶が詠んだ句が「瀧けぶり 側で見てさえ 花の雲」で、滝の近くに刻まれています。
一茶には同じ春の句に「雪とけて 村いっぱいの 子供かな」があります。力強く感動的な自然の中に人々の暮らしがあり、そんな村に遅い春が訪れ、春の陽気の中で遊びまわる子供たちで溢れている情景が浮かんできます。一茶が感動した自然、一茶が暖かい眼で見つめた村の子供たち、そんな里の生活が現在の私たちに何を教えてくれるのか。一茶が柏原で詠んだ句をいくつか挙げておきましょう。
しづかさや 湖水の底の 雲のみね
湖に 尻を吹かせて 蝉の鳴く
と野尻湖を優しく詠い、そして、
是がまあ つひの栖(すみか)か 雪五尺
けふばかり 別の寒さぞ 越後山
と豪雪の中の生活を表現しています。
一茶は1763(宝暦13)年柏原の中百姓の子として生まれました。三歳で実母と死別、産みの母の顔も姿も知りません。その後、八歳の時には継母がくるのですが、この継母と一茶の仲はすこぶる悪く、小さくか弱い動物や小鳥に一茶は常に同情を寄せました。孤独な一茶は十五歳で江戸へ奉公に出されます。奉公先を転々とかえながら、二十歳を過ぎたころには、俳句の道をめざすようになります。一茶は五十歳の冬、故郷に帰ります。そして、五十二歳で二十八歳の常田菊と結婚します。やがて、長男千太郎、長女おさと、次男石太郎、三男金三郎と次々に子宝に恵まれるも、いずれも夭折。六十二歳の一茶は再婚、さらに二年後に再再婚しました。文政10年6月1日、柏原の大火に遭遇し、母屋を焼失した一茶は、焼け残りの土蔵に移り住みます。この年の11月19日、一茶は中風により、六十五歳の貧寒な生涯を閉じました。
一茶の句に「木枯や隣というも越後山」があるように、彼の生れ在所は柏原、越後との境です。前には妙高山、黒姫山、飯綱山が肩を並べ、後は戸隠です。この山々の裾野と、後に聳える斑尾山の裾との縫い目が柏原です。有恒学舎の若き英語教師となった会津八一は俳句に関心を寄せ、大学生時代から小林一茶に傾倒していました。有恒学舎に赴任したのを契機に、一茶の研究に打ちこみ、新井町の醸造家入村四郎(作)宅から一茶自筆の『六番日記』を見つけました。『一茶句帳』、『一茶句集』、『おらが春』にある従来知られている一茶の句は2,400~2,500句でしたが、この八一の新発見により、一茶の未公開の句が一気に2,500~2,600句ほど加わり、倍増しました。
*北嶋藤郷「越州沙門良寛と秋艸道人會津八一-その俳句をめぐる一考察-」ではp.58に「新井町の醸造家入村四郎宅」とあるが、會津八一記念館の彼の生涯の記載では「新井町の醸造家入村四郎作宅」とある。
*一茶の「六番日記」は島崎藤村が序を書き、勝峰晋風解説で『一茶旅日記』として1924(大正13)年に古今書院から出版される。解説には入村誠氏(前市長入村明氏の祖父)や相馬御風への言及があるが、会津八一への言及はない。解説の勝峰晋風(1887-1954)は俳句の研究者。
良寛は一茶より7年早く生まれ、一茶より6年後に亡くなりました。となれば、二人はこの世に65年間も一緒に暮らしていたことになります。良寛は1795(寛政7)年38歳で越後に帰り、翌年から国上五合庵に18年間住みます。その後、乙子神社境内の草庵に約10年、最後は、三島郡島崎の木村元右衛門の庵に住み、74歳まで生きます。一茶が柏原に帰ったのは50歳(1813年)で、良寛が五合庵時代の56歳の頃です。一茶が亡くなったのは1813年、65歳でした。15年間、二人はそれぞれ柏原と出雲崎に住み、それぞれの雪国の生活を送っていたのです。