粋:意気とエッセンス

 江戸の「粋」は「いき」。「息」は吐くもの。空気を吸い、吐いたとき、息になる。吐いて、最後に残ったものに付け加えるのが、江戸の「粋」。それは単純美を求める庶民の美意識で、その反対語は「野暮(やぼ)」。ところが、京都の粋は「すい」。「すい」は「吸う」に通じ、自分の中に吸い込むことによって、自己研鑽する。身の内に吸収して「粋(すい)」になっていく。このように対比されると、つい成程と合点してしまう。

 ところが、「いき」と「すい」に大差はないと主張するのが九鬼周造で、「いき」と「すい」は同一の意味内容を持つと論じている。彼の『「いき」の構造』(1930、岩波書店青空文庫)は、「いき」を「他の言語に全く同義の語句が見られない」ことから日本独自の美意識として位置付けている。江戸の人々の道徳的理想が「いき」に色濃く反映されていて、それは「意気地」に集約され、やせ我慢と反骨精神にそれが表れている。「いき」は「意気」であり、「意気地」、「意気込み」、「生意気」など、やる気や心構えなどを表していた。

 「いき」と「すい」はどこが同じで、どこが違うのかなどという疑問はまるで粋ではないと叱られそうだが、哲学は野暮な疑問を隠し切れない。「いき」は「意気」と書いたのだが、次第に様々な意味を持つようになり、心だけでなく衣装風俗にも使われるようになる。江戸後期になると主に女性に、特に深川の辰巳芸者に使われるようになった。辰巳芸者は冬でも素足に下駄、羽織をまとい、そのきっぷのよさが「いき」の代表とされた。また、質素倹約のおふれが出ていた江戸では、縦縞や格子などの地味な柄しか使えず、「四十八茶百鼠」と呼ばれる茶色や鼠色(例えば、深川鼠、利休鼠など)などの色合いを使いこなすことが「いき」とされた。上方の「すい」が恋愛や装飾などで突き詰めた末に結晶される文化様式(例えば、心中や絢爛豪華な振袖の着物など)、文字通り純粋の「粋(すい)」、エッセンスであるのに対し、江戸の「いき」は大人の落ち着いた風情、「いなせ」は若者で、威勢がいいことであり、実に対照的である。

 ところで、ムラサキは平安時代から武蔵野のシンボル。ムラサキ(花は白色、染料は根)からつくられる江戸紫は青色の強い紫で力強い活気を表現している。一方、深く渋い紅みの強い紫で、江戸紫に対するのが「京紫」。京都は雅を好み、江戸は活気を好み、紫色の色みにも江戸と京都の違いが出る。京紫は古くからの紫を受け継ぐので古代紫(こだいむらさき)、江戸紫は江戸時代の今様の色として今紫(いまむらさき)とも言われる。

 話は変わるが、九鬼周造の父は九鬼水軍の流れをくむ九鬼隆一。近代日本の最初の文部官僚で、最初の駐米特命全権公使だった。彼はフェノロサ岡倉天心東京美術学校の開設を助けた。母は祇園出身の星崎初子(はつ、波津)。アメリカ滞在中にその初子が身ごもったので、隆一は同行していた若い天心に付き添わせて、帰国させた。だが、横浜までの船旅はあまりに長く、二人は男女の仲になり、これがスキャンダルとして発覚し、天心はつくったばかりの東京美術学校の校長の座を追われ、それが大観、春草らと日本美術院を創設にすることにつながるのである。天心の終焉の地が赤倉。

 この事件によって九鬼夫婦は別居する。そのスキャンダルの渦中で生まれた周造は天心に「父」を感じながら育つことになる。母の初子はやがて発狂、精神病院に入る。

 さて、天心と初子の行動は粋だったのだろうか?九鬼周造がヨーロッパ哲学を使って粋を分析したのは果たして粋な分析だったのだろうか?粋は言説、思想によってわかるものではなく、風俗や文化によって楽しむものだというのが江戸っ子の粋な答えなのかも知れない。

 

*九鬼隆一は慶應義塾に入学し、その翌年に文部省に入り、日本の古美術調査保存や美術教育に力を注ぎ、男爵に列せられた。岡倉天心フェノロサの影響で日本美術に傾倒し、文部省に入り、九鬼のもとで美術行政に関わり、東京美術学校の設立、日本美術院の創設などを行い、横山大観らの優れた日本画家を育てた。天心は九鬼より12歳年下、九鬼の考え方を美術の世界に鮮やかに展開し、「九鬼のある所必ず天心あり、天心ある所必ず九鬼あり」と言われるほどだった。

 九鬼は福澤諭吉が唯一生涯許さなかった弟子である。「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」と言われた福澤が脱亜論から迅速な近代化を実現しようとしたのに対し、文部省の九鬼は「古来の日本にも素晴らしいところあり」と主張し、天心と共に興亜論を主張した。そして、官学重視路線をとり、私学の弾圧に乗り出す。慶應義塾にとって九鬼は正にユダであったが、日本美術史を語る上では大変な恩人の一人で、天心と共に日本美術の再評価に努め、美術行政にも力を注ぎ、文化財保護に多大な貢献をした。九鬼の出身は兵庫県の三田(さんだ)。白洲次郎の祖父白洲退蔵も三田の出身で、福澤門下生の一人だった。福澤が大隈重信と共に政府転覆の疑いを向けられた「明治14年の政変」の時、九鬼は慶應義塾関係の情報を薩長の政治家に内通していたと噂され、福澤は政変後、このことに激怒、一切の交遊を断った。福澤が美術に関して消極的とも取れる発言を繰り返したのは、美術行政を握っている九鬼への憎悪に由来する、とまで言われている。九鬼も天心も日本文化のエッセンスを重視し、福澤は意気を大切にしたようである。