依代

 「依代(憑代、よりしろ)」は人工的なものでも自然のものでも構いません。人形(ひとがた)や祠(ほこら)は人工のもの、ご神木は自然のものです。依代は人や動物の場合もあります。『古事記』や『日本書紀』によれば、神はものに依り憑いて、初めて具象化するとあり、依代の多くは古来より伝えられてきたものです。また、祭りで見かける山車等も降霊の役割を持つとされ、依代の一種と考えることができます。人が依代になる例では巫女、イタコなどだけでなく、相撲の力士や神楽の芸人も含まれます。このような説明に疑問をもつ人は多くなく、「依代」は太古から日本にあった言葉や概念だと思いがちですが、それは誤りなのです。

 このような「依代」の定義や説明は、実は折口信夫が提唱したものなのです。「招代(おぎしろ)」は神を招き入れるものに対する、招く側から見た用語であるのに対し、「依代」は神霊などが寄り付く対象物のことで、招かれる側から見た用語です。ですから、意味として正反対になり、神霊に来てほしい人間が用意するのが「招代」ということになります。

 折口によれば、「依代は神霊が降臨する地点を明示するために、神霊降臨の目的物につけられた目印」であり、「樹木や磐座自体が依代なのではなく、そこに付された聖なる印こそが依代」なのです。一方で、折口の論を受けた柳田國男は、依代について樹木に神が憑依するとそれが神木になると考え、目印としての依代については考察しませんでした。柳田の理解では、神が憑依する樹木自体が依代に該当し、目印とは考えませんでした。つまり、「依代は、折口にとっては目印、柳田にとっては憑依する物自体を意味した」のです。民俗学者だけでなく、多くの人が柳田の影響力のもとにあり、そのため、「依代」を柳田風に理解してきたようです。私自身も「目印としての依代」は考えていませんでした。

折口信夫は私のいた大学の国文学専攻の教授でした。残念ながら、私はあったこともありませんが、折口の弟子の方々の授業は受けた記憶があります。今なら彼が同性愛者だったことは問題にもならなかった筈です。