神話や昔話:柳田と折口

 柳田国男は『昔話と文学』(1938)序で、昔話を「神話といふものゝひこばえ(切り株や木の根元から出る若芽)であることは、大体もう疑ひは無いやうであります」(新全集9、p.252)と述べ、神話と昔話の関係をどのように捉えていたかがわかります。

 折口信夫は古代日本人の心に沿って『古事記』を読み解く必要を説き、神と人間と自然の境界線がファジーなもので、その境界線を明確にするような試みは『古事記』を壊すことだと考えていました。

 柳田を読むと日本と自分とを懐古する気分になるのですが、ふるさとや日本についての知識が増える訳ではありません。自分の知らなかったことを思い出すかのように感じられ、知識と物語の違いに気づくのです。柳田の場合、「民俗学」というより、「民間伝承」と呼ぶ方が適切でしょう。一方、折口は神話や地名に熟知していて、その名の発生と変遷を軸に様々に考える人でした。

 例えば、柳田の「蝸牛考」(1930)によれば、「ナメクジ」、「カタツムリ」、「でんでんむし」の順に呼び方が変化していて、それを自分の子供時代に重ねながら読んでしまいます。また、折口がケガレは「死の力」、カミは「生命の力」を表すと述べると、神道の神と穢れとの関係が腑に落ちるのです。

*それぞれの地域で「ナメクジ、カタツムリ、でんでんむし」の使い方はどのようになっているのでしょうか。

**私は折口のことを国文学専攻の先生方から口承、伝承を通じても知ることができました。