神々と人々の絆(7):アウグスティヌスと三位一体論の画像

 『神の国』は410年に書かれたのですが、この年にはローマがアラリクスの率いるゴート人によって包囲されました。この災いをキリスト教徒に対する神々の怒りと多くの人が信じ、キリスト教徒への非難が高まりました。そこで、アウグスティヌスキリスト教弁護のためにこの書物を書いたのです。どのように立派な都市も国もいつかは滅びます。だから、私たちは天から降りてくる不滅のエルサレム、神の都、神の国に目を向けねばならない。この神の国こそがキリスト教会です。でも、この教会の全員が神の国の市民になる訳ではありません。『三位一体論』では、父・子・聖霊は完全に同等であることが言われ(昨日それについて述べた)、父は愛するもの、子は愛されるもの、聖霊は両者をつなぐ愛であると考えられたのです。さらに、アウグスティヌス聖霊が父と子より発出していることを主張しました。

*頭の体操として、「神の国」と「神国」の違いを説明してみて下さい。

 信仰とその言語的・概念的表現または説明としての教理とは、区別して理解する必要があります。『聖書』には三位一体という語はなく、この教理は後に教会が生み出したものです。神はイエス・キリストを通して聖霊によって自らを啓示し、人々を救済します。だから、三者は啓示と救済の働きにおいては一つのものとして受けとられ、新約聖書でも既に三者が相並んで記されている個所が幾つかあります(マタイ28:19、1コリント12:4~6、2コリント13:13、その他)。これを「三つの位格、一つの実体(tres personae, una substantia)と明確に表現したのがアウグスチヌスでした。彼はペルソナを内在的三位一体論における関係概念であると規定して、三神論になる危険を防ぎ、神の働きは外に向っては分けることができないとして経綸的三位一体論の立場を本来のものと考えました。

 ここで、少々視点を変えて、そのアウグスティヌスと三位一体論に関わる絵画を幾つか見ることによって、彼の思索のもつ特徴を直観的に知ることにしましょう。アウグスティヌスがとても人間的な教父であり、神学や哲学の思索を人間的な営みとして捉え、私たち現代人に近い意識、心、精神を持っていたことを改めて確認して下さい。

(1)ボッティチェリ「書斎の聖アウグスティヌス」(1480-1481年 | 152×112cm | フレスコ | オニサンティ聖堂)
 たっぷりした衣服をまとい、瞑想に耽る聖人の彫りの深い表情、書物や時計、天球儀などが緻密に描写され、さらに胸に手をあてる身振りや、節々のはっきりとした手の描写などに、ボッティチェリらしい特徴が見事に表れています。16世紀の美術史家ヴァザーリによれば、ボッティチェリはこの絵画で評判を博し、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の壁画制作という新たな仕事を獲得しました。アウグスティヌスは、彼の書斎で作業を中断し、目をあげ、深く心動かされています。アウグスティヌスは、大きな仕草で彼の胸に右手を置き、ヒエロニムスの死を幻視しているのです。アウグスティヌスの姿は悩む人間を代表するような姿だというのはわかるのですが、ヒエロニムスの死を感じていることまでは伝わってきません。

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(2)ヴァン・ダイク「聖アウグスティヌスの幻視 」(The vision of St.Augustine, St.Augustine in Ecstasy)(1628年 | 390×225cm | 油彩・画布 | アウグスティヌス会聖堂)
 17世紀フランドルを代表する画家ヴァン・ダイクの傑作的宗教画作品の一つが「聖アウグスティヌスの幻視」です。アントウェルペンの聖アウグスティヌス会聖堂のために制作された作品で、ラテン教会四大博士の一人で、ヌミディアのタガステに生まれたアウグスティヌスが『三位一体論』の執筆中に経験したことが描かれています。彼が浜辺を散策中、幼児が貝殻で砂浜を掘り海水を汲み上げる姿を目撃し、それが無駄な努力であることを幼児に諭しました。すると、その時自身の責務であった三位一体論の神秘解明が不可能であることを自覚するのである。気づき、戒められた体験を、幻視体験として表現したのがこの作品です。画面上部には天上から降臨する聖三位一体を示す父なる神を、画面下部には中央に幻視体験をする聖アウグスティヌス、その左部に聖アウグスティヌスの母で敬虔な聖女でもある聖モニカ、右部にはおそらくは聖ニコラウスであろう僧侶が配されています。
 でも、このような説明がなければ、そもそも三位一体がこの絵に描かれていることさえわかりません。三位一体論をわかるように説明することが困難であるように、それを絵に描くことも同じように困難なことが実感できます。

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(3)ガロファーロ 「聖アウグスティヌスの幻視」(The Vision of St. Augustine)(ジョセフ・ロウルズによる小品インタリオ 版画1832年
原画の作者 ガロファーロ(Garofalo, Benvenuto Tisi, 1481 - 1559)
版の作者 ジョセフ・ロウルズ(Joseph Rolls, fl. 1832 - 1838)
 原作のガロファーロ(Garofalo, 本名 Benvenuto Tisi, 1481~1559)はイタリア、フェラーラの画家で、フェラーラボローニャ、ローマ等の教会を主な活躍の場としました。フェラーラ画派の中心人物であり、ヴェネツィアジョヴァンニ・ベリーニやジョルジョーネの影響、また特にラファエロの影響を強く受けています。この作品はロンドンのナショナル・ギャラリーに収蔵されているものです。キリスト教史で最も偉大な教父アウグスティヌスの幻視を描いた絵。アウグスティヌスグノーシス派をはじめ様々な異端派が乱立した初代教会の時代に正統なキリスト教の擁護に努め、神学の発展に尽くしました。「神は三つにして一つである」というキリスト教最大の「三位一体」を理論的に説明したのがアウグスティヌスです。西洋哲学史の時代区分では彼の死が古代の終りとされています。 
 原作はSaint Augustine with the Holy Family and Saint Catherine of Alexandria(1520年頃 板に油彩 64.5 x 81.9 cm ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵)です。絵の中でアウグスティヌスの後ろに立っているのは3世紀ごろの殉教者アレクサンドリアの聖カタリナです。彼女が手にしているナツメヤシの葉は殉教者の印です。天からは聖家族と天使達の奏楽隊が地上の様子を見守っています。
 キリスト教の考えでは、人間の知性によって神の属性を知ることはできません。中世最大の神学者かつ哲学者であるトマス・アクィナスも、あるとき幻視を見てから「私が見た物に比べれば、これまでに考え書き記してきたことは塵のようなものだ」と言って、著述をやめてしまいました。アウグスティヌスは死ぬまで書物を書き続けましたが、彼の優れた知性をもってしても、神の属性を知ることはまったく不可能でした。

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(4)フィリッポ・リッピ「聖アウグスティヌスの幻視」(1450-1460年代初期 油彩、テンペラ、板 エルミタージュ美術館
 『三位一体論』を執筆中のアウグスティヌス海浜を散策中、幼児が貝殻で砂浜を掘り海水を汲み上げる姿を目撃、それが無駄な努力であることを諭したところ、責務とした「三位一体論」の神秘解明が不可能であることに気付かされました。この作品に描かれているのは有名な伝説の一場面で、三位一体の原理について思索しているアウグスティヌスの前に幼児キリストが現れて、人間の知力に限界があることを諭すところです。その教えを聴いて自分を省みる聖者と幼きキリストのやりとりが、二人の表情と動作に具体的に表現されています。この伝説を世俗的に描いたフィリッポ・リッピの特徴がよく表れています。

f:id:huukyou:20180825123729j:plain*数枚の絵画を観ただけでも、魂や精神を直接表現できないように「三位一体」も描くことは想像もできないことがわかります。