二つのギリシャ哲学のその後

 高貴で高邁なプラトンの哲学と合理的で科学的なアリストテレスの哲学とは水と油のように違います。二人の哲学の違いはその後のヨーロッパやイスラムの世界に大きな対立を生み出すことになります。

 ローマ帝国の末期にはキリスト教が国教となり、新プラトン主義者のプロティノスプラトンの「イデア」を神に置き換え、神による世界創造というロマンティックな教義を生み出しました。となると、反プラトン主義のアリストテレス哲学は、キリスト教の「神学」にとって不都合な哲学ということになります。ですから、西ローマ帝国が滅びると、アリストテレスの哲学はヨーロッパ世界からは消えてしまいます。でも、彼の著作はアラビア語に翻訳されてイスラム神学を作るのに利用され、盛んに研究されることになりました。

 11世紀の十字軍遠征によってヨーロッパとイスラムの交流が始まり、スペインのトレドでイスラム神学者を中心にアリストテレスの著作をアラビア語からラテン語に翻訳することが始まります。12世紀に入ると、パリとボローニャに大学ができ、そこにアリストテレスの著作が1000年ぶりに再登場することになります。これによって起こったのがプラトンの「実念論(Realism)」とアリストテレスの「唯名論(Nominalism)」との普遍論争です。この論争は14~15世紀までつづき、聖アンセルムス、アラベール、ドン・スコトゥス、トマス・アクイナスなどの聖職者や哲学者が議論を展開しました。

 中世を通じて一般の人々の識字率が低く、もちろんラテン語などはほとんどの人が知らず、学問は修道院の僧侶たちがもっぱら独占していました。それが、12世紀にヨーロッパに大学ができ、一般の人々が学問を学び始めたことが、アリストテレスの哲学を受け入れる素地を作ったのです。

 そして、アリストテレス哲学とキリスト教思想を総合したシステムをつくり出したのがトマス・アクィナスです。トマスは、アウグスティヌス以来の新プラトン主義の影響を残しながら、神学の基礎をプラトン哲学からアリストテレス哲学へ移したのです。