既に一重のヤマブキ、八重のニワザクラについて述べたが、画像は幾つかの花の一重と八重。クチナシは梅雨どきに大型で純白の6弁花を咲かせて強い香りを漂わせ、秋には橙赤色の果実をつける。熟しても裂開せず、口が開かないことから「クチナシ」の和名がつけられたとされているが、一重のものと八重咲きのものがある。ドクダミにさえ八重咲きのものがあるから、珍しいことではないのだが、二つは一体何が違うのか。
八重咲きは花びらの内側のおしべやめしべが並んでいる場所に、さらに多くの花びらが並んで、花びらだけで花が構成されているように見える咲き方。普通は、野生の植物にはおしべとめしべがあるのが当然で、このような八重の花は突然変異によるものである。八重咲きの内側の花びらは、おしべやめしべに対応し、それらが花弁化したのが八重咲き。花弁はもともとおしべやめしべを囲む葉に由来するので、おしべやめしべも小胞子葉、大胞子葉だから、やはり葉が起源。いずれも葉に由来するから、それらがすべて花弁化することはさほど不思議ではない。だが、八重咲きの花ではおしべやめしべが正常につくられないので、種子や果実は作られない場合が多く、繁殖は株分けなどで行うしかない。
バラの花は八重咲きが普通のように考えられるが、野生種は五弁の花びらを持つ。ウメには八重咲きながらもおしべもめしべも正常な花が見られる。これは、花弁が余分に形成されたものと考えられる。ランの場合、いわゆる洋ランには八重咲きはほとんどない。他方、東洋ランにはいくつもの八重咲きがある。
「一か八か」は、「結果がわからないままに、運を天に任せて勝負すること」という意味の慣用句。「一」と「八」がそれぞれ何を意味し、なぜ一と八なのかについては、幾つもの説があるが、いずれも賭博から生まれた言葉。一つは、賭博の「丁か半か」の「丁」、「半」という字のそれぞれ上部をとったものであるという説。もう一つは、「一か罰か」、すなわち「賽の目で一が出るかしくじるか」によるという説。語源の特定はなかなか難しく、いずれが正しいかの特定は困難である。
では、英語では、一重咲きと八重咲きをそれぞれ何と言うのか。英語では、一重咲きを「シングル(single)」、八重咲きを「ダブル(double)」と言う。シングルは納得できても、八重咲きがダブルでは計算が合わない。日本では、数字の「八」は、形が末広がりであることから、古来縁起のいい数字、幸運をもたらす数字とされてきた。また、数が多いことをあらわす際に、「八」を用いる例がたくさんある。「八重咲き」、「八重桜」だけでなく、「八百万の神」、「嘘八百」、「七転び八起き」、「七重の膝を八重に折る」等々。
一重の椿は、花が潔く一挙に落ちるが、八重の椿はなぜか枯れても落ちず、樹上で醜い姿を晒している。一重の桜は大好きでも、八重桜は嫌いという人が結構いる。だが、薔薇の花を想像するよう言われたら、一重の薔薇をあえて想像する人は少ない。このような美的な評価が一重や八重の花になされ、生物学的以外の基準が複雑に入り込み、様々な評価・判定がなされてきた。一重と八重は生物と文化、事実と嗜好が入り混じって、人と花の生活世界をつくり上げている重要な事柄の一つになっている。
子供の私にはヤマブキの黄色の花はどれも八重だった。だから、私は八重のヤマブキを真正のヤマブキとして記憶し、それをそのままほぼ半世紀保存してきた。我が家の裏庭に山吹の群生があり、春先には斜面が黄色に染まり、そこに近くのシャガが混じって、その目に鮮やかな光景が子供の私を惹きつけたのだ。原色の黄色と緑の葉の取り合わせも見事で、裏庭のヤマブキの光景が私の記憶に焼き付き、それがしっかり保存されてきたのである。だから、次のような『後拾遺和歌集』の歌にも妙に共感できた。
ななへやへはなはさけどもやまぶきのみのひとつだになきぞあやしき(かなしき)
*「あやしき」の代わりに「かなしき」という説もある
「七重八重に山吹の花は咲くけれども、実が一つもないのはふしぎな(悲しい)ことです」がこの歌の意味。詞書(ことばがき)によると、雨の降る日に蓑を借りに来た人に歌の作者(兼明親王)が山吹の枝を差し出した。それを理解できなかった相手が真意を尋ねたので、それに答えて詠んだのがこの歌で、山吹に実がならないことをふまえ、「みの」に「蓑」をかけてある。太田道灌が、農家で蓑を借りようとして少女に山吹の枝を差し出され、その意味がわからず、後に不明を恥じて歌道に励んだという逸話で有名になった。だが、正直なところ、こんな歌を詠まれてもいい気分はしないのではないだろうか。小生意気な少女と誰もが感じるのではないか。平凡な私には「蓑がなくて申し訳ない」と言われた方がずっとスッキリする。太田道灌の逸話もいかにも作り話という気がしてならない。蓑などと駄洒落にせずに(山ぶきの蓑とは一体何なのか解せない)、歌そのものを味わえば、博物学的な疑問が「あやしき」に、実をつけない山吹への気持ちが「かなしき」に詠われていて、いずれでも筋が通る。こんなクイズとも頓智ともいえる逸話は、さらにこれを下敷きにした落語「道灌」と似たり寄ったりで、文学的には二流の作り話でしかなく、歌の真髄とは程遠い。こんな風な結末があっても、私のヤマブキそのものの記憶はなんら損なわれることなく保存された。
定年後、近くでヤマブキらしきものを見つけ、よく見たのだが、私の記憶の八重のヤマブキではない。だが、それこそが普通のヤマブキだったのである。私にはそれが記憶のヤマブキとは大違いで、色だけが同じ別の種類の植物に思えたのだ。これは簡単な事態で、調べれば済むこと。そこで、調べた結果、それはヤマブキで、しかも一重のヤマブキが本来のヤマブキだと知ることになった。何とも背筋が寒くなるような話で、私はヤマブキについてずっと偏見をもち続けてきたのである。それ以降、ますますヤマブキが好きになったことは言うまでもない。
その後、さらに知ったのはシロヤマブキ(白山吹)の存在。ヤマブキの花に似ているのに色が白い。ヤマブキのアルビノかと訝しく思いながら、調べてみると「シロヤマブキ」は単なる色違いではなく、ヤマブキとは別の植物だった。シロヤマブキはバラ科シロヤマブキ属の落葉低木。花弁は4枚で、白色。ヤマブキはヤマブキ属で5弁花。何と黄色いヤマブキとは別属なのである。葉の形も非常によく似ているが、その配置が違う。ヤマブキは互い違いに生えているが、シロヤマブキは向かい合わせ。
*画像はクチナシ、ドクダミ、ヤマブキ、コデマリの一重と八重の花