10月28日にトノサマバッタについて記したばかりだが、今日はツチイナゴに遭遇した。私にとっては実に有り難い偶然が重なって、かつて「奇跡のような時間:団塊世代の私が田舎で経験した自然」と題した拙文を思い出したのだ。それを要約してみよう。
田舎生れの団塊の世代とそれまでの人たちが経験したのが今はなき自然で、それはその後の子供たちには想像さえ困難なものである。日本が戦争に敗れ、経済成長が始まるまでの短い期間で、1945年から1955年頃までの約10年間。農地解放で自作農になった農家が農業を再スタートさせた期間である。その10年ほどは牛や馬が田畑で働き、山羊、豚、鶏が農家に飼われていて、家畜が身近なものだった。そんな日本の古い生活と自然を経験した最後の世代が団塊世代である。
私たちが経験した奇跡は、自然が生き物で溢れていたこと。田畑に昆虫や雑草が溢れ、生き物の展示場のような自然がそこにあった。子供の私が一人でいても寂しさより生の喧騒を感じるほどで、生命がここそこに満ち溢れていた。子供の私でもその賑わいを十分に感じ、堪能できた。こぼれ出るような生命に満ちた自然が眼前にあったのだ。
バッタ、タニシ、ドジョウ、カエルたちが田んぼに密集していた。田んぼはそんな小動物が賑やかに生を満喫するところだった。水が張られた田んぼには水生の生き物が、イネが刈り取られた後には陸生の生き物が入れ代わり立ち代わり生きていた。地球は何と豊かなのかを子供でもしっかり実感できた。だが、奇跡の世界は農薬によって死の世界へと変貌する。農薬がこれでもかと田んぼに撒かれ、人々は農道の歩行を禁止され、毒が蔓延するような自然がいきなり登場する。農薬散布後の田んぼからは生き物の姿が消え、すっかり静かになってしまった。その世界は今の田んぼとも違って、殺戮後の世界だった。
タニシが溢れ、カエルの鳴き声がうるさく、ドジョウだらけの田んぼを見ることはもうないだろう。それは私のような団塊世代の多くの子供たちが故郷で体験した奇跡だったのだ。農薬が大量に使われ、耕運機が走り回り、水車がなくなり、耕地整理が進み、農村の風景は急速に変わってしまった。私が10歳を過ぎる頃には田んぼの単位面積当たりの生き物数はすっかり減り、今の田舎(の人の数)のように寂しくなってしまった。
バッタとイナゴの区別などまるで気にならなかったのが少年時代の私。イナゴが食用になるなど露程も思っていなかった。食用になるイナゴはコバネイナゴだという知識など田舎を離れてから知ったこと。ところで、バッタとイナゴは何が違うのか。イナゴはバッタの一種というのが答え。バッタの幼虫が狭いところで大量に育つと、群生相という遠くまで飛べるバッタになる。遠くまで大量のバッタが飛び、通過する場所で食料を食べ尽くす。この遠くまで飛べるバッタになる変化が相変異。遠くまで飛べるようになる相変異が起きるのがバッタで、起きないのがイナゴ。
トノサマバッタとツチイナゴを見分けるのは目の周り。ツチイナゴの目(複眼)の下には涙を流しているような模様が入る(画像)。ツチイナゴは名前の通り、茶色だが、トノサマバッタは緑も茶色もいる。トノサマバッタは「6月~11月」まで見られるが、ツチイナゴは「10月~6月」と見られる時期が異なる。
さてさて、私が子供の頃に田んぼで捕まえていたイナゴは一体どんなイナゴだったのか?まるで思い出せず、永遠に謎のまま。生き物たちの生々しい記憶の中で、生き物たちの名前は怪しいまま。だが、それによって私の奇跡の記憶が損ねられるものでは決してないのだ。