田舎では自然に囲まれていたのに、子供の頃の私は昆虫少年とは程遠かった。ファーブルにもダーウィンにも大した関心はなかった。それでも魚類、両生類、爬虫類、昆虫、それに種々の植物が溢れるほどに豊富だったという記憶はしっかり刻み込まれている。8歳頃に急に農薬が普及し出し、大異変となるが、それまでの田圃は命の大合唱を楽しむことができた。
特別に好奇心をもてないものについては、嫌いな生き物、好きな生き物、どちらでもない生き物というのが当時の私の何とも大雑把な分類。好きな生き物があるのはごく自然なことだが、好きな酸素があるとなると、誰も首を傾げるだけだろう。物体の運動を考える際、好きな物体や嫌いな物体は運動の考察には何の関係もない。それと同じように、生き物の生態を考える際、好きな生き物や嫌いな生き物は生態研究には何の関係もない筈なのだが、好きな生き物の生態は一層詳しく知りたくなるのが人の常である。「好きである」ことと「知りたい」ことの間には強い相関があるのは当然のことだと思ってしまう。つまり、好奇心(=知りたい心)は好みと相関があるとつい信じてしまう。
だが、私たちは好奇心と好みは違うとも思っている。酸素原子への好奇心は酸素が好きだということではない。猫や犬が大好きでも猫や犬の習性に好奇心をもっているとは限らない。普通の人には生き物への好奇心があっても、それが好きな生き物かどうかはわからないものなのだが、昆虫少年や博物学大好き人間には好奇心と好みが見事に一致し、それが普通の科学者とは違ったオタク的な特徴を博物学者たちに与えてきたのではないだろうか。それも実は決定的なことではなく、電子や陽子を研究していくうちに、いつの間にかそれらが大好きになってしまった原子核物理学者がいるに違いないからである。好みは後天的であり、経験に左右されるが、好奇心はどこか本能的なものをもっていて、経験からの影響は比較的に少ないのかも知れない。
「知りたい」と「好きになる」という心理は欲求と感情の違いだと言われてきたが、二つを結びつけた「好きになったから、知りたい」と「知りたいから、好きになる」とを比べると、前者は自然でも、後者はいかにも不自然である。「知りたいが、好きではない」と「好きだが、知りたくない」とはいずれも可能で、それぞれの例は簡単に見つかる。これらの例は二つの関係が如何に微妙かを物語っている。この種の話を敷衍すれば、理性や感性に代表される認識論的な名詞は、それらの指示対象が当たり前に存在するとしなければならないような使い方を近世以後してきたのである。理性も感性も心的な能力を指示していると信じること自体は誤っていないが、それが信念ではなく事実であることを真面目に検証しようとしてきたかと問われれば、20世紀まではほとんどなかったのである。
今は終日セミの声が響き、クマバチが蜜を求め、コガネグモが糸を張っている。コガネグモの巣はきれいな円網を作り、クモは常に網の中心にいて、頭を下に向けて静止する。この時、前2対と後ろ2対の足をそれぞれそろえて真っすぐに伸ばし、その配置はX字状になる。彼らの世界がどのようなものかを想像しようにも、どうしてもできない。私の能力不足もさることながら、同じ生き物でもまるで異なる進化の道筋を歩んできた結果として、埋めることのできない差が歴然と存在すると認めざるを得ない。コガネグモはジョロウグモと混同され、同じものと見做されることも多かった。ジョロウグモは大型の造網性のクモで、コガネグモより大きく、複雑な網を張り、網の糸は黄色を帯びてよく目立つ。子供心にも「なんと立派なクモか」と何度か感心した記憶が残っているのは確かなのだが、それがコガネグモなのかジョロウグモなのかいずれなのかとなると、私の記憶は途端に曖昧になり、わからなくなる。これは私の老化が原因なのではなく、そもそも最初からわからなかったのである。クモは子供の私の好き嫌いの対象でも好奇心の対象でもなかった。だから、コガネグモもジョロウグモも「大きく立派なクモ」でしかなかったのである。つまり、私の子供の頃、コガネグモの記憶もジョロウグモの記憶もなく、あったのは立派なクモの記憶だけなのである。
それはクモだけでなく、セミやハチについても同様で、私たちの生き物の記憶は一人一人の関心に大いに左右されている。