行為と倫理について(7)

20世紀の倫理思想 (1)
 20世紀の倫理学はムーア(George E. Moore, 1873-1958)の『倫理学原理』(Principia Ethica, 1903)、ロス(David W. Ross, 1877-1971)の『権利と善』(The Right and the Good,1930)から始まるが、ウィトゲンシュタインの『論考』の影響を受け、エイヤーやスティーブンソンの情緒的な理論が出てくる。情緒的な理論から離反する傾向はトゥールミンやヘアーの倫理的推論によって加速される。そして、ロールズの『正義論』によって現在に至る。ここでは前半部分を眺めてみよう。

G.E. Moore, Principia Ethica (1903)
 功利主義(Utilitarianism)はある行為より別の行為を選択した場合の結果だけに基づいて、行為が正しいか誤っているかを見定める規範的理論で、自分の関心だけでなく他人の関心をも説明する。ベンサムJeremy Bentham, 1748-1832)は効用原理を次のように考えている。

人生の苦痛と快楽の基本的役割を認識する。
結果となる苦痛と快楽の量に基づいて行為をするかどうか評価する。
快楽を善、苦痛を悪とする。
快楽や苦痛は量的に測ることができる。

ミル(John Stuart Mill, 1806-1873)はベンサムのこの快楽主義的傾向をより穏やかなものに変える。

功利主義にとって重要なのは快楽の量ではなく、幸福の質である。
量的な快楽計算は合理的でない。
最大幸福が功利主義の原理である。

 効用原理を特定の行為や一般的規則に適用すると、行為功利主義、規則功利主義が出てくる。それらは次のような考えである。

行為功利主義:正しい行為は最善の結果(あるいは最小の悪い結果)をもたらす行為である。
批判:行為の結果についての十分で、確実な知識をどのように得ることができるか。

規則功利主義:行動規範の妥当性を決定するのに使われる。「約束を守る」という規則はそれが破られた世界とそうでない世界の結果を見ることからつくられる。正しいかどうかはそのような規則を守るか破るかによって定義される。
批判:正しくない規則が生まれる可能性がある。ギリシャ奴隷制は正しくない規則だが、その結果から正しかったかもしれない。

 ムーアの考えはこのような功利主義の立場を踏襲するが、ここに自然主義的誤謬が加わる。功利主義自然主義的誤謬、そしてそれらから生じる道徳的直観の理論がムーアの倫理学の内容となっている。
 ムーアによれば、自然主義的誤謬は善を自然的な傾向と同一視するという誤謬である。例えば、善を快楽と同一視してみよう。すると、前提に快楽を含む推論から倫理的判断を含む結論を論理的に得ることができる。だが、ムーアは自然的性質の記述は倫理的判断を論理的に帰結しないと主張した。「Xが快楽をもたらす」ことから自動的にXは善なのではなく、あらためて「Xは善か」と問い直さなければならない。この結果として、ムーアは次のように考える。「黄色」が単純な概念であるのと同じように、「善」は単純な概念である。「善」は別のものから定義されるのではなく、「黄色」が定義されなくとも理解できるように、定義されなくても理解できるものである。
 ムーアは倫理的に推理する仕方が功利性の原理に明瞭に現われると考えた。「私は何をすべきか」という実践的な問いに対して、その行為が善を起こす、あるいは良い結果をもたらすことになるかどうかによってその行為をするかどうか決めなければならない。そこから、「正しさ」はよい結果の原因を意味し、したがって、有用であることと同じである。有用さの決定は直観による。人は道徳的な行為の固有の価値を直観する。
 エイヤー(A.J. Ayer, Language, Truth and Logic(1935))の考えは典型的な論理実証主義である。命題には二種類しかない。それら二つとは論理や定義からの必然的真理を表す分析的命題と事実を表す総合的命題である。総合的命題は意味の検証理論によって、その真偽が決定される。どんな命題も観察命題に還元され、そこで真偽の判定ができないのであれば、意味のある命題とは言えない。したがって、この基準を満たさない命題は無意味な擬似命題に過ぎない。倫理の命題は経験的な検証が可能な言明に還元できないので、この基準を満たさない。それゆえ、倫理的命題は意味をもたず、したがって、その命題の真偽は言えない。では、何が倫理的命題に残されているのか。それは倫理的な表現が情緒的であるという信念であり、世界の実際の状況に何かを付け加えるものではない。この考えは典型的な倫理の主観主義である。よって、倫理は話者の情緒の表現であるか、あるいは、社会学や心理学の記述科学が対象とする現象である。いずれの場合も、規範的な理論に近づくような仕方で倫理について語ることはできない。
 スティーブンソン(C.L. Stevenson, Ethics and Language(1944))はより体系的な仕方で情緒説の内容を提示する。事実と価値の違いに基づいて、信念と態度の区別を使って倫理における区別を明らかにしようとする。信念は事実に、態度は評価や心理状態に関係している。倫理的判断は何かをすべき、すべきでないということに係わるため、客観的な記述以上のものを含んでいる。信念と態度の間には基本的区別が存在し、後者は決して関心から中立的な記述に還元できない。倫理の究極の基礎は、真でも偽でもなく、単に事実の領域を越えた私たちの態度の情緒的な表現である。事実と価値の区別はここでは信念と態度の区別として表現されている。
 次の段階はこのような実証主義的な立場への批判を含んでいる。そして、倫理についての見解は方向を変え、事実と価値の区別を乗り越え、倫理に自らを語る言葉を再度持たせようとする。

Stephen Toulmin, Reason in Ethics(1948)
 ムーアの『倫理学原理』と同じ程の影響をもって、実証主義に反対したのがトゥールミンであった。彼は実証主義の基礎にあった事実と価値の区別を断ち切ることによって、情緒説を批判した。この批判は事実言明の地位に関する問いを通じてなされた。その主張は次のようにまとめられる。

倫理は自らの推理をもつ。
その推理は可知的なものに対する規則をもった言語ゲームである。
どんな推理の仕方、どんなタイプの文もそれ自らの論理基準をもっており、その個々の使用を調べることによってその基準は発見される。

 倫理は客観的(性質としての価値)、主観的(情緒的)、あるいは命令的のいずれにも還元できない。むしろ、倫理は自らの範囲と推理の仕方をもっている。倫理はそれ自身で自律的である。それは倫理的存在を生み出す生活とその形態によって決定される。倫理的存在の基準は社会の調和・秩序である。ここからなされるべき行為の種類に関する推論がつくられる。

R.M. Hare, The Language of Morals(1952)
 ヘアーは伝統的な分析的手法によって、倫理的推理、表現の意味を明らかにしようとする。道徳の言語は本質的に処方的で、特定状況では普遍化可能な命令形となっている。私は自身のために嘘をつかないという命令を処方している。そのような処方はその内容と私の行為が一致することを求める。道徳の言語そのものが行為に係っている。