他力や自力への雑念

 私は昨日次のように書きました。
親鸞パウロも回心を経験しますが、そのきっかけはそれぞれ聖徳太子、キリストでした。真の信仰をもつきっかけは外からやってくるのが普通であり、ブッダやキリストもそうだったのではないでしょうか。外部からのきっかけを他力と呼んでもよいのですが、そうなると小乗と大乗、他力主義と自力主義は別に考えるべきでしょう。まして、自帰依と法帰依を同じように考えるのは大いに危険です。」回心のきっかけがどこから来たのかによって、自力と他力の区別がなされるが、それは曖昧である、と言いたかった訳です。
 内と外、内部と外部、心と身体、霊魂と物質、意識と実在といった対概念は対立するものとして殊更にその違いが強調されてきた感があります。他力と自力もそのような対立として捉えられてきました。でも、内も外も明晰・判明な区別とは到底言えず、気分によって変わる曖昧な区別に過ぎません。常識的な区別を使って行われてきた議論はそもそも信用できない議論なのですが、それがあたかも最重要な事柄であるかのように扱われてきたことも否定できません。その一例を以下に再現してみましょう。
 他力主義は、善や真が自分の外にあり、自分の内部にはない、と主張します。そこから、すべての衆生は平等に「罪悪生死凡夫」として、 絶対他者の力によって残らず救済されるとジャンプすることになります。善や真の存在が特定の人間や自我から独立していることが保証されるのであれば、私たちはその外部のものを信じ切ることによって救われることになります。
 それに対して、自力主義は自分の内部に善、真がある、と主張します。したがって、自己の内の霊的な力(例えば、菩提心)によって、自己の煩悩からの解放、解脱が可能となります。これを実際に実行し、成就したのがブッダだったと考えることができます。善や真が生まれるのは私たちの心の内であり、それを大切に育て上げることによって自らが解放されることになります。
 こうなると、意識についての外在主義、内在主義の議論が思い出され、上述のことはこの対立の宗教信念版と考えてもよいでしょう。科学は実在する世界を前提にし、外の世界からデータを取り、それについて理論をつくるのですが、その点では典型的な外在主義です。科学知識は外部に実在する世界についての知識となります。でも、理論によって世界を解釈することを優先させると、逆転した立場となり、内在主義が登場することになります。健全な科学者は大抵外在主義者ですが、量子力学などでは内在主義をとることも大いに可能で、その場合は量子力学的世界は意識の世界となるのです。
 デカルトの意識は表象(representation)からなっていますが、表象はイメージのようなもので心の中の劇場の舞台シーンのようなものと考えられてきました。表象内容は心の中にあり、だからこそre-presentなのだというのがデカルト以来の伝統であり、それはフッサールにも引き継がれています。でも、何の表象かと問われれば、外部世界の出来事についての表象であり、意識は外の世界についての意識なのだとその志向性を強調すれば、外在主義的な意識像、表象像が登場することになります。そして、この対立を意識ではなく、信念や欲求にまで広げると、上記のような自力と他力の対立に繋がっていくことが容易に想像できます。何かの信念、何かの欲求なのですが、その「何か」が心の中にあるか外にあるかで意見が分かれることになります。