私たちは世界の中で行動しています。その世界は因果的な連関をもつ出来事や状態の集まりです。行動もまた出来事の一つですから、世界の因果連関の中に組み込まれています。このような因果の鎖の一部分を取り出してみると、次のような一連の系列が見えてきます。
環境、遺伝子 →A 心(信念+欲求)→B 行動
矢印→Bは行動の原因としての心の関与を示していますが、矢印→Aは外部の原因によって引き起こされる心の状態(特定の信念や欲求をもつこと)を示しています。心が行動に関与しているかどうかは私たちの常識的な世界ではしばしば重要な役割を果たします。例えば、ある行動が故意か否かは裁判の判決において大きな違いを生みます。でも、心の働きと物理世界との関係は決して明らかではありません。この明らかでない関係が引き起こす典型的な問題が自由と決定に関するパズルです。このパズルは次のように表現できます。人間の信念、欲求、そして行動がその人自身のコントロール外のものによって引き起こされるなら、そこに私たちの自由な裁量は入っていません。上の矢印→Aでは環境や遺伝子が人間の心のあり方を決定しているように見えます。環境や遺伝子は私たちのコントロール外のものです。それらが心の状態を決定するなら、矢印→Bの結果は自発的になされた行動ではないことになります。でも、私たちは自分の行動が自発的なものであり、それゆえ、その行動に対して責任をもたなければならないと思っています。そうであるなら、どのようにして行動が自由選択の結果と言えるのか、これが伝統的なパズルです。
因果的な連関に関して古来議論されてきた考えは次の二つです。
決定論:因果的な事実を完全に記述できれば、何が将来生じるか決定できる。
非決定論:現在の完全な記述が与えられても、将来に二つ以上の可能性を残す。
因果的決定論はあらゆる因果的に関連する事実が与えられれば、将来はただ一つだけ決まると主張します。すべての物質変化が決定論的で、心も物質であれば、人間の行動は物理的に決定されていることになります。実際、古典力学は運動変化についての決定論を主張してきました。この世界観は20世紀初頭まで信じられてきましたが、量子力学の登場と共に非決定論的な世界観が浸透し始めています。一方、物理学以外の領域では人間の行動の自由選択、意志の自由が古くから認められてきたため、19世紀には社会科学で既にその自由の入った出来事や状態を確率・統計概念を用いて取り扱っていました。この二つの流れと心の特徴づけは上述のパズルとなって私たちに突きつけられています。心が物理的なものかどうかを未定のままにしておいても、次のような二つの選択肢の間で決断を迫られることになるのです。
決定論が正しいなら、確率は私たちの知識や情報の欠如を示し、主観的なものになる。
決定論が誤っているなら、確率は世界についての客観的な事実を述べていることになる。
では、非決定論は私たちを自由にするのか。それは私たちに自由を保証する理論的な根拠になるのでしょうか。世界が非決定論的なら、上述の行動の因果連関は次のように修正しなければならなくなります。
環境、遺伝子、偶然(chance)→A 心(信念+欲求)→B 行動
この図式通り、私たちの信念と欲求が環境、遺伝子、そして偶然によって決まっているとしてみましょう。決定論が私たちの自由を奪うなら、偶然もやはり私たちの自由を奪うことになります。私たちが自ら自由に決定するのではなく、偶然に左右されるままになるというのは、私たちにとっては厳格に決定され、自由の入る余地がない場合と大同小異です。偶然は私たちのコントロール外のものであり、私たちの自由な決断は上の図式では入る余地がありません。偶然を認めても、それだけでは自発的な行動は何ら説明できないのです。
ここで、決定論と運命論(fatalism)の区別も重要です。決定論は、過去が異なっていたとすれば、現在も異なっていただろうという考えを排除しません。決定論はまた、現在私がある仕方ではなく別の仕方を選ぶならば、私は未来に起こることに影響を与えることができるという考えも排除しません。でも、運命論はこれを否定します。現在あなたが何をしようと未来はそれとは無関係に決まっているというのが運命論の主張です。つまり、決定論と運命論はほとんど正反対のことを主張しているのです。運命論は私たちの信念や欲求が無力であることを主張しますが、決定論では信念や欲求は因果的に私たちの行動をコントロールできることが主張されています。
これまでの議論から、自由意思があるかどうかの判断どころか、世界と心の間の基本的な因果連関は簡単どころか、とても厄介だということがわかると思います。その判断を助長する例として、宗教における自力、他力の違いを取り上げてみましょう。仏教でもキリスト教でも暗黙の裡に心に関する多くの常識がそのまま使われ、常識心理学が活用されているのがわかります。
1仏教
仏教はそもそも自力が基本でした。釈迦から始まる仏教は「自力」という立場でした。自らの力によって仏になることを目指す道が「自力」。その「自力」のマニュアルは、苦にあえぐ衆生(迷う生き物、特に人間)を救う仏になりたいという意思をもち、どのような仏を目指すかという「願(がん)」をたて、その実行を誓い、「行(ぎょう)」を重ねることによってその願いを成就し、遂に解脱し、仏になります。「行」には八正道や六波羅蜜を基本にして様々なものがありますが、心を正し、行いを正していくこと、それが「行」。
「行」を自力で修めていくということは大変に厳しいもの。なぜなら、どんな「行」を修めるにせよ、自らがすべての煩悩から離れた悟りの境地に到るまで、続けなければならないからです。いつ終わるともしれない人生の中で、それを成し遂げられる保証はどこにもありません。ですから、誰にでも達成できる道ではなく、勝れた人だけしか「仏になる」ことができません。これが「自力」です。
「自力」の道は、誰にもオープンなのですが、実はそのゴールに辿り着くことができる人は限られています。でも、それでは勝れた人だけしか苦しみから解放されないということになります。その上、仏になるということは実はゴールではないく、そこから「仏」としての活動が始まる第一歩なのです。それは釈迦がそうであったように、苦悩の中にある人を救うという活動で、仏教が目指すのは、苦悩の中にある生命を救うことです。でも、勝れた人しか悟りに到達できないのでは、それはいつまでたっても達成されません。
そこで、登場したのが大乗仏教で、大乗とは大きな乗り物のこと。多くの人が苦悩から解放できるための仏教が大乗仏教という訳です。中でも代表的なものが「浄土教」。「浄土」というのは仏の住む世界のことです。この現実世界では、誘惑も多く「行」を完成させることがとても難しい。そうならば、娑婆で「行」を修めきることができなかった人も、まずは一旦、「行」を修めるのに適した仏の世界に生まれさせ、そこで誰もが心ゆくまで「行」を積み、それを完成させるというアイデアが生まれてきたのです。
しかし、これもまた「自力」の延長にある考え方です。浄土で自らの力によって成仏を目指すわけですから、「自力」ということに変わりはありません。浄土に生まれる(=往生)ためにも善い行いを積むことが必要で、その点では浄土教は「自力」の仏教であることには変わりはないのです。ところが、その浄土教の中から斬新な考えが起こってきます。それが浄土宗や浄土真宗の「念仏」です。親鸞は、比叡山で20年の修行に励みます。でも、わかったのは「行」を最後まで修め切ることのできない自分の姿でした。そこで出会ったのが浄土宗の開祖法然。法然は、「南無阿弥陀仏」という念仏一つで救われると親鸞に教えたのです。
では、なぜそんなことが可能なのでしょうか。仏となるためには、仏になって苦にあえぐ人を救いたいという菩提心と「願」、そしてその願を成就させるために「行」を修めることが不可欠。でも、普通の人にはとてもできそうにもありません。実はそのことを見通していた「阿弥陀仏」が経典に書かれていたのです。その経典は、『無量寿経』、『観無量寿経』、そして『阿弥陀経』。そこで説かれる阿弥陀仏は、自分の力で「願」を起こすことも、「行」を修めることもできない人たちを救わずにおれないと自ら願い、行を修め、仏となることを誓った仏です。では、どんな方法で実現させるかといえば、阿弥陀仏が私に代って「願」と「行」を成し遂げ、それを「南無阿弥陀仏」という念仏に込めて私に届けるという方法です。私はその届けられた「南無阿弥陀仏」を念仏することによって、阿弥陀仏の浄土に往生し、仏となることが約束されるというのです。何とも巧みな話で、うまいことだらけです。
阿弥陀仏の力による成仏には、私の力は全く介在しません。阿弥陀仏の側で、私が仏になるために必要な事柄を準備してくれます。私はそれをただ受け取るだけ、これが「他力」です。親鸞は「他力といふは阿弥陀仏の本願力なり」と言い切ります。他力は阿弥陀仏の本願(あらゆる生き物を必ず救うという願い)の働きです。そして、この「他力」という言葉は二つの立場から解釈できます。一つは私を基本にした解釈、もう一つは阿弥陀仏を基本にした解釈です。私を基本にすると、私に対して阿弥陀仏が「他」ということになり、そのはたらきが本願力=「他力」になります。しかし、阿弥陀仏を基本にすると、今度は「他」は私になります。ですから、私をターゲットにした働きが、阿弥陀仏の本願のはたらき=「他力」になります。私を基本とした時には、私が依り所とすべきは、阿弥陀仏の願いの働きであったと考えることができます。逆に、阿弥陀仏を基本にすると、働きの主体は阿弥陀仏で、私はその阿弥陀仏の願いと働きの対象という構図になります。
ところで、「自力」の道と「他力」の道は両立できるのでしょうか。「他力」は船に乗ることによく例えられます。阿弥陀仏の教えを受けながら、「自力」も使おうとするのは、その船の上で走るようなもので、意味がありません。それどころか、私を仏にするという阿弥陀仏の願いを受け入れる一方で、「自力」も使おうというのは阿弥陀仏の働きを信じないことになります。「他力」の教えは、私という人間は「自力」によって仏になれないことを知ることなのですから、両立しないことになります。
ここまで「自力」と「他力」とを比べて見てきました。「他力」の教えが素晴らしいと思う人は少ない筈です。それは「他力」の教えを受け取ること自体が、「自力」の放棄と受け取られるからです。人の心は「自ら考え、決める」ことにあります。そう考えると、「他力」は非人間的で、不自然なことになります。
2キリスト教
次はキリスト教での他力と自力について考えてみましょう。キリスト教ではこの世界の歴史にはいつか終わりがあり、その時に最後の審判が行なわれ、その後は天国と地獄が永遠に続く、と教えています。ですから、人間にとって本当の悪は永遠の罰だけで、そこに落ちる原因が罪ですから、この世で恐れるべきただ一つのことは罪を犯すことという簡単な結論になります。また、「救われる」とは天国に行き、そこで永遠の命を楽しむということです。
では、この永遠の命は人間の努力によって達成できる目標でしょうか。これはかなり難しい、というより理解不可能な問題です。仏教の自力本願というのは、自分の努力によって、つまり厳しい修業によって悟りを開くという考えだと述べました。他方、他力本願とは、救いは人間の力では達成不可能で、ただ仏の慈悲にすがるしかないという考え。浄土宗や浄土真宗がその代表例でした。
それでは、キリスト教は自力、他力のどちらなのでしょうか。キリスト教といってもプロテスタントとカトリックを区別しなけばなりません。プロテスタントの創始者ルターは親鸞とほぼ同じ考え方です。つまり、ルタ-は「人間はアダムとイブの原罪によって堕落した。人類はその堕落し切った本性を引き継いでいるから、よい行いができない。つまり、人間がする行いはすべて罪。でも、キリストを信じたら、その信仰のみによって救われる、とルターは述べています。これは100%の他力本願です。また、ルタ-は人間がよいことをできないと言うことによって、人間が自由意志をもつことを否定しました。
それに対して、カトリックも、天国に行くのは人間の力では無理で神の助け(恩寵)がいると教えます。しかし、人間の側から何もできないのではなく、人間も神の助けを受け入れて協力する必要がある、と述べます。アウグスティヌスは「神はあなたなしにあなたを造られたが、あなたなしにあなたを救うことはない」と説明しています。カトリックでは人間に自由意志を認めます。ですから、カトリックの考えでは、地獄に落ちる人がいるならば、それはその人が自由に悪を選択した結果、つまり、自業自得となるわけです。
でも、問題はそう簡単ではありません。なぜならば、「人間は自由と言っても、神は初めから一人一人の人間がどんなことをするかを知っている。それなら、地獄に落ちる人がいるとして、神様はそのことをわかった上でその人を造られるのだから、結局人間の運命は前もって決まっているわけで、自由は見せかけではないのか」と反論ができるからです。これは運命論そのものです。人間の運命が生まれる前から決まっていると考えたのがカルヴァンです。
これに対してカトリックは、カルヴァンの予定説を誤りとして断罪しました。このような議論の決着をつける拠り所を問われれば、それは聖書。聖書にどのように書かれているか、それこそが最終的な根拠。誰も死後の世界を見て戻ってきて、「天国はこんなところだった」と話した人はいないのですから、人間の言うことはどれも想像に過ぎません。でも、聖書が神様の言葉を記していると信じるキリスト信者は、浄土真宗や浄土宗が特定の経典に頼るように、聖書に頼ります。それでは聖書には何と書いてあるのか。この点について一番大切な言葉は次のものです。「すべての人が救われて真理を深く知ることを神は望まれる」(ティモテオ前書、2章1、4)。神がすべての人の救いを望むことは、聖書の他の箇所からもわかりから、神が人をわざと地獄に落とすために造ったことは絶対にありえないことになります。
神は全知ですから、誰が救われ誰が滅びるかも神は知っています。でも、ある人が滅びるということを知っているということと、その人を滅ぼすということは別のことです。私たちが悪いことをしたとき、神が前もってそうするように決めていたから私たちがその悪を行ったわけではなく、やはり、自分で進んで自由にそれを選択したのでしょう。でなければ、悪業は本人の責任ではなく、事前にそれを決定していた神の責任になってしまいます。とはいっても、この問題は最終的に人間には理解不可能なこと(人には理解不可能な啓示された事実はミステリーと呼ばれます)。カトリックの教えとして三つのことだけ明確にしておきます。それらは、「神は誰をも永遠の罰に定めるということはない」、「神は私たちが善を選ぶように助けを与える」、「しかし、善を選ぶか悪を選ぶかは私たち人間に任されている。言い換えれば、私たちは自分で自分の運命を決めることができる」ということです。
*最初の概略的な説明と仏教やキリスト教での自力、他力の説明が随分と異なっていることをまずは確認して下さい。すると、これまでの話は多くの誤りを含んでいることが納得できる筈です。その上で、どうしてそれ程の違いが生じているのか考えて下さい。すると、自由意志、自力、他力が状況依存的な曖昧な概念として(融通無碍に)使われていることがわかる筈です。