自力と他力、そして自由意志(3)

 原始仏教から大乗仏教への歴史的変化は自力から他力へのパラダイムシフト。キリスト教宗教改革は個人の自由意志の肯定から否定へのパラダイムシフト。このように表現すると、共通した歴史的変化のように映ります。実際、戦争まで引き起こしたこれらシフトは、当時の社会構造まで変えたのですが、自力と他力のいずれが正しいのか、あるいは人には自由意志があるのか否か、と言った肝心の問題への解答が得られたかどうかは不明のままで、しかもそれが今でも続いたままです。そのためか、原始仏教が誤りだと言う浄土教の僧はおらず、プロテスタントの信者はキリスト教徒でないというカトリックの神父もいません。

 これまでの議論では他力本願や神の全知全能のもとではすべてが計画され、配慮されていることが正しく、私たちの知識は浅薄で不完全なものに過ぎないことが論証されているかのように語られてきました。でも、正直に言うなら、どの議論も一つの前提のもとでの議論に過ぎず、その前提が成立しないなら、何の意味も持ちません。その前提とは「神や仏(とそれらが有する本性)の存在」です。神の存在証明は中世哲学の重要項目(例えば、トマス・アキナスの「5つの道」)でしたが、これまでの証明で正しいと認められたものはありません。仏教には仏の存在証明を意識的に行うという習慣さえなく、経典によって物語るだけです。

 「神や仏が存在しなくても何の不合理、不都合も生じない」という言明が正しいことは私たちの限られた日常経験においてはほぼ自明のことです。聖典や経典の内容を無視することによって、物理世界に実質的な不都合が生じるかといえば、何の変化も起きません。一日の生活に必要な物理的な事柄について、神や仏の存在を仮定しないと成り立たないという事柄を物理世界に見つけることはできません。科学理論が不合理、不都合を生み出すなら、その理論は修正され、あるいは、廃棄され、新しい理論に変更され、不都合が解消されます。その繰り返しによって科学理論は進化し続けます。でも、聖典や経典は変化しません。聖典や経典は全く正しいのに対し、変化する科学理論は常に暫定的に正しいに過ぎません。でも、科学理論が誤っているとなると、様々な不都合が生じてきます。そして、この不都合が科学理論を進化させるきっかけとなってきました。

 「信仰は信じることであり、証明することではない」のは確かですが、神や仏を仮定した論証が正しいと主張するには、その仮定の証明がなければ、何の意味ももちません。特に、他力や自由意志否定論は神や仏の絶対性、普遍性を前提にするゆえ、神や仏の存在証明が不可欠となります。でも、神や仏の存在を否定しても不都合は起こりません。すると、存在を仮定する必要がなくなり、存在証明は不要になります。

 神や仏が差配し、支配することを因果的に納得できる仕方で説明できるなら、神や仏の力が具体的に理解できることになり、信頼できるのですが、因果的な過程への神や仏の関与の仕方は不明です。実際、聖典も経典も神や仏の力を奇蹟としてしか説明しません。穿った言い方をすれば、奇蹟としてしか述べることができないのです。奇蹟の過程が物理学的にわかるのであれば、奇蹟ではなくなり、神や仏の偉力は神通力を失ってしまいます。

 これまでの議論に登場した重要項目の間の関係を図式的にまとめておきましょう。

大乗仏教は他力本願を基本にするが、それは自由意志を否定し、すべてを神の決定と捉えるプロテスタントの考えに類似する。

原始仏教は自力本願を基本にするが、それは自由意志を肯定し、人間の裁量を許すカトリックの考えに通じる。

(・因果的決定論の代表は古典力学決定論であるが、それは自由意志を否定し、すべてが力学法則によって決定されるとする。)

(・因果的非決定論の代表は量子力学であるが、それは自由意志の働く余地を残し、量子力学の法則自体が確率的だとする。)

 そこで、次の三つの言明を考えてみましょう。

(1)100%の自由意志を認める釈迦は無神論的な修行者である。

(2)カトリック信者は数%の自由意志をもつ。

(3)古典力学決定論は100%の物理的決定論を主張する。

これら三つの言明のどの二つについても、それらは両立不可能です。つまり、三つがすべて真になることはあり得ないのです(三つが偽になることもない)。

 さて、私たちが「信じる」スタートは、私たちがまず意志することですが、その際の自由な意志はどこから生じるのでしょうか。どこかに発端がないなら、私たちは単なる情報処理モデルと解釈され、すべては因果的な結果として説明され、自由意志は存在しなくなります。「信じる」という宗教にとって最も基本的なことが、外部の環境からの刺激の一つになり、神や仏は偶然的に信じられる、あるいは信じられない対象となります。一方、天国や極楽での生活が神や仏を信じることによって保障されますが、その生活とは自由意志が何もない生活なのでしょうか。私たちが望む理想の生活の中に自由意志が含まれていないというのはそれこそ信じられないことです。

 上のような図式的な言明を背景に考えるなら、これまでのどの議論もまともなものではなく、仮定や前提を認めた上での局所的な議論に過ぎなく、普遍的な話とは似ても似つかないものだったことがわかるのではないでしょうか。

 修道院や寺院での厳しい修行は、天国に行く、成仏するといった目標達成のマニュアルが不完全であることの見事な証拠です。元来、宗教も思想も世界や社会、そして人間についての大雑把な不完全マニュアルに過ぎません。いずれもとても不正確な経験的な手引きでしかありません。また、倫理は行為とそれを引き起こす自由意志をどのようにコントロールするかの方法です。宗教も倫理も共に実在論的な意義をもつように思えるのは、いずれも実に巧みに心理的なレベルでの説得力をもっているからです。特に、宗教がその威力を発揮するのは物理世界ではなく心理世界。天国や極楽は聖典や経典で描かれるシナリオとそれを巧みに演出する宗教家によって物語の実在化が行われ、私たちの心に訴えることによって心理世界を通じて理解され、実現することになります。

 誰もが考える日常生活での月並みな言明はきっと次のようなものでしょう。

・私たちはいつも強いわけでも、いつも弱いわけでもない。

・私たちは自由に行動することも、規則に従って行動することもある。

・私たちは時には自分の力でやり、時には人の助けを借りてやる。

宗教的な内容とこのような分別めいた平凡な内容との落差は、宗教的な内容と科学的知識との落差に劣らず大きいものです。それゆえ、宗教的な言明に科学的な知識を使って一途に反応するだけでなく、分別なるものを使って、平凡に対応するのも一つの方策だということを忘れてはならないでしょう。