自力とか他力とか…

<仏教>
 仏教は本来自力宗教からスタートした。だから、わざわざ「自力」という言葉を使って強調することもなかった。「他力」という概念の対概念として「自力」という言葉が使われたと考えるべきで、仏教は歴史的にも「自力」という立場をとっていた。
 自らの力によって仏になることを目指す道が「自力」。その「自力」のマニュアルは次の通り。まず、苦にあえぐ衆生を救う仏になりたいという(菩提)心を起こし、どのような仏になることを目指すのかという「願(がん)」をたて、その「願」の通りになることを誓う。そして「行(ぎょう)」を重ねることによってその願いを成就させ、仏になる。「行」には八正道や六波羅蜜を基本に様々なものがあるが、心を正し、行いを正していくこと、それが「行」。「行」と言えば禅が思い起こされるが、布施のような行為も「行」の一つ。そのような「行」を重ねることによって、自らの苦悩の根源である煩悩を超え、そして衆生を苦しみから救う「仏」になることができる。
 「行」を自力で行うことは大変に厳しい。なぜならば、「行」は100%完成させなければならず、どんな「行」を行うにせよ、自らすべての煩悩から離れた悟りの境地に到達しなければ、目的は達成できない。短い人生の中で、それを成し遂げる保証はない。だから、誰にでも達成できる道ではなく、勝れた人だけしかゴールに辿り着くことができない道で、これが「自力」という考え方の基本。
 「自力」の道は誰にでも開かれているが、実はそのゴールに辿り着くことができる人はごく少ない。だが、それでは勝れた人だけしか苦しみから解放されないことになり、その上、仏になってからも厳しい道が続く。「仏」としての活動が始まると、それは釈迦と同じように苦悩の中にある人を救うという活動で、目標は苦悩の中にある生命を救うこと。だが、勝れた人しか悟りという境地に辿りつけないのでは、それはいつまでたっても達成されない。そこから登場したのが大乗仏教。大乗とは大きな乗り物のこと。多くの人を苦悩から解放するのが大乗仏教の使命である。その中でも代表的なものが「浄土教」。「浄土」というのは仏の住む世界のこと。この娑婆世界では、誘惑が多く「行」の完成が困難。そこで、娑婆で「行」を修めきることができなかった人も、まずは一旦、「行」を修めるのに適した仏の世界に生まれさせ、そこで誰もが心ゆくまで「行」を積み、それを完成させるというシナリオが生まれる。だが、これもまた「自力」の延長にある考え方。浄土において、自らの力によって成仏を目指す訳だから、浄土という環境変化があるにせよ、「自力」ということに変わりはない。浄土に生まれる(=往生)ためにも、やはり善い行いを積むことが必要になり、「自力」の仏教であることには変わりはない。
 ところが、その浄土教の中からパラダイムシフトが起こる。それが浄土宗や浄土真宗に見られる「念仏」の教え。浄土真宗の開祖親鸞は、比叡山で20年の修行に励む。しかし、そこでわかったのは、「行」を最後まで修め切ることのできない自分の姿。そこで出会ったのが浄土宗の開祖である法然。彼は、「南無阿弥陀仏」という念仏一つで救われるということを親鸞に教えた。では、なぜそんなことが可能となるのか。仏となるためには、仏になって苦にあえぐ人を救いたいという菩提心と「願」、そしてその願を成就させるために「行」を修めることが不可欠。しかし、一般の人たちが菩提心を起こし、「願」をたて、「行」を修めることは、とてもできそうにない。だが、実はそのことを見通していた「阿弥陀仏」がいることが、経典に述べられていた。その経典は、『無量寿経』、『観無量寿経』、そして『阿弥陀経』。そこで説かれる阿弥陀仏は、自分の力で「願」を起こすことも、「行」を修めることもできない人こそを救わずにおれないと願い、行を修め、仏となることを誓った仏。では、どうやってそれを実現させるかといえば、阿弥陀仏が私に代って「願」と「行」を完成させ、それを「南無阿弥陀仏」という言葉に込めて私に届け、私はその「南無阿弥陀仏」と念仏することだけによって、阿弥陀仏の浄土に往生し、仏と成ることが約束されるという仕組み。
 この阿弥陀仏の力による成仏の道には、私の力は全く介在しない。阿弥陀仏が、私が仏になるために必要な事柄を準備してくれる。私はそれをただ受け取るだけで、これが「他力」の教え。「他力」は「他人の力を当てにする」というようなネガティブな意味に使われるが、ここでの「他力」の「他」は、私以外の人という意味ではない。では、「他」とは、誰を指すのか。親鸞は「他力といふは如来の本願力なり」と言う。如来とは阿弥陀仏のことだから、他力は阿弥陀の本願(あらゆる命を必ず救うという願い)の働きであると理解できる。この「他力」という言葉を私を主にしてみると、私に対しての「他」、つまり、ここでは阿弥陀仏が「他」ということになり、そのはたらきが本願力=「他力」になる。だが、阿弥陀仏を主にすると、今度は私が「他」になる。だから、私をターゲットにした働きが、阿弥陀仏の本願のはたらき=「他力」になる。
 次に、「自力」の道と「他力」の道は両立できるのか。阿弥陀仏四十八願と呼ばれる願いを見ると、「自力」の人も救うと誓われている。だが、阿弥陀仏の成仏道では、自力は意味をもたない。「他力」の教えを船に乗ることに例えるなら、船に乗ると目的地に到着できる。阿弥陀仏の教えを受けながら、「自力」も使おうというのは、その船の上で走るようなもので、無意味である。そればかりか、私を仏にするという阿弥陀仏の願いを受け入れながら、「自力」も併用しようというのは阿弥陀仏の働きを信じないことにつながる。「他力」の教えは、私が「自力」によっては仏になれないことを知ることである。
 ここまで「自力」と「他力」とを比べて見てきた。人の心には「計らう(はからう)」ことがある。「計らう」というのは、自分の経験や知識を使って考えること。例えば、仏教は自らが「行」を修めることだと思っているなら、念仏一つでその道が約束される、ということはどう考えても論理的ではなく、腑に落ちない。しかし、それは単に自分にとって理解できないだけのこと。そこには自分の「はからい」が関与していて、その「はからう」心は「自力」の心。そう考えると、「他力」は「自力」から完全に離れることになるが、逆にそれもまた非人間的で、実に不自然。
キリスト教
 ここでキリスト教での他力と自力について考えてみよう。キリスト教ではこの世界の歴史にはいつか終わりがあり、その時に最後の審判が行なわれ、その後は天国と地獄が永遠に続くと説かれている。だから、人間にとって本当の悪は永遠の罰だけで、そこに落ちる原因が罪だから、この世で恐れるべきただ一つのことは罪を犯すことという簡単な結論になる。また、「救われる」とは天国に行き、そこで永遠の命を楽しむということ。
 では、この永遠の命は人間の努力によって達成できる目標なのか。これはかなり難しい、というより理解不可能な問題。仏教の自力本願というのは、自分の努力によって、つまり厳しい修業によって悟りを開くという考えだと述べた。他方、他力本願とは、救いは人間の力では達成不可能で、ただ仏の慈悲にすがるしかないという考え。親鸞によれば、生涯に一度だけでも「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、どんな悪い人でも救われる。
 それでは、キリスト教は自力本願、他力本願のどちらなのか。プロテスタント創始者ルターは親鸞とほぼ同じ考え方をする。つまり、ルタ-は、人間はアダムとイブの原罪によって堕落した。人類はその堕落し切った本性を引き継いでいるから、よい行いができない。つまり、人間がする行いはすべて罪。でも、キリストを信じたら、その信仰のみによって救われる、とルターは述べている。これは100%の他力本願。また、ルタ-は、人間はよいことができないと述べ、人間の自由意志を否定したのである。
 それに対して、カトリックも、天国に行くのは人間の力では無理で神の助け(恩寵)がいると説く。しかし、人間の側から何もできないのではなく、人間も神の助けを受け入れて協力する必要がある、と述べる。アウグスティヌスは「神はあなたなしにあなたを造られたが、あなたなしにあなたを救うことはない」と説明している。カトリックでは人間に自由意志を認める。だから、カトリックの考えでは、地獄に落ちる人がいるならば、それはその人が自由に悪を選択した結果である、つまり自業自得となる。
 だが、問題はそう簡単ではない。なぜならば、「人間は自由でも、神は初めから個々のの人間がどんなことをするかを知っている。地獄に落ちる人がいるなら、神はそのことをわかった上でその人を造るのだから、結局人間の運命は前もって決まっていて、自由はない」と反論ができるからである。そして、人間の運命が生まれる前から決まっていると考えたのがカルヴァンである。
 これに対してカトリックは、カルヴァンの予定説を誤りとして断罪。このような議論の決着をつける拠り所を問われれば、それは聖書。聖書にどのように書かれているか、それこそが最終的な根拠。誰も死後の世界を見て戻ってきて、「天国はこんなところだった」と話した人はいないから、人間の言うことはどれも想像に過ぎない。だが、聖書が神の言葉を記していると信じるキリスト信者は、浄土真宗や浄土宗が特定の経典に頼るように、聖書に頼る。では、聖書には何と書いてあるのか。この点について一番大切な言葉は次のもの。「すべての人が救われて真理を深く知ることを神は望まれる」(ティモテオ前、2章1、4)。神がすべての人の救いを望むことは、聖書の他の箇所からもわかるから、神が人をわざと地獄に落とすために造ったことは絶対にありえないことになる。
 神は全知(すべてを知っている)。だから、誰が救われ誰が滅びるかも神は知っている。だが、ある人が滅びるということを知っているということと、その人を滅ぼすということは別のこと。私たちが悪いことをしたとき、神が前もってそうするように決めていたから私たちがその悪を行ったのではなく、自分で進んで自由にそれを選択したのである。そうでなければ、悪業は本人の責任ではなく、事前にそれを決定していた神の責任になってしまう。とはいえ、この問題は最終的に人間には理解不可能なこと(人に理解不可能な啓示された事実はミステリーである)。カトリックの教えとして三つのことだけ明確にしておこう。それらは、「神は誰をも永遠の罰に定めるということはない」、「神は私たちが善を選ぶように助けを与える」、「しかし、善を選ぶか悪を選ぶかは私たち人間に任されている。つまり、私たちは自分で自分の運命を決めることができる」ということである。
<弱者への反発:ニーチェの場合>
 「神は死んだ。今や我々は欲する。超人生きよと。」これはニーチェが『ツァラトゥストラかく語りき』で述べた有名な台詞。ヨーロッパ社会ではキリスト教的な価値観が長く支配してきた。キリスト教の神の意にかなうことが善で、これにそむくことが悪とされてきた。人間とは何ごとにも常に肯定的に、ポジティブに生きていくことができない生き物。そのため、強者に対する弱者の妬みや嫉み(ルサンチマン=憤り、怨恨、憎悪)が生み出される。そして、強者に対する弱者の不平不満の気持ちが、過去への復讐心や未来への償いを求める心(「今はつらいが、未来あるいは来世は必ず良くなる」という他力の心)を生み出す。人は、「道徳的には自分が正しい、いずれあいつらは地獄に落ち、自分は天国にいける」といった気持ちを持ってしまい、これが善悪という価値の起源になるのだ、とニーチェは主張する。彼によれば、キリスト教的価値観はこの考えにぴったり適合する。二ーチェは、キリスト教的な神や価値観、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰が消滅し、現実の世界が無価、無意味になり、ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを「神は死んだ」という言葉で表した。
*「神は死んだ」の表現は『悦ばしき知識』(Die fröhliche Wissenschaft,1882)の108章、125章、343章にある。125章の記述を抜粋すると、Gott ist todt! Gott bleibt todt! Und wir haben ihn getödtet!(God is dead. God remains dead. And we have killed him.)
 キリスト教的な清く正しく美しくという生き方は、世の多くの弱者に対して今どんなにつらくても真面目に清く正しく美しく生きていけば、来世は天国に行けるという考え方を植えつけてきた。それをニーチェは「現世は原罪を背負って生きる、呪われたかりそめの生であって、本当の生は来世にある」とする現実否定の思想、ニヒリズムと表現する。
 ニーチェによれば、善悪という価値に始まり、あらゆるものの価値は人間のルサンチマンに求められるものであり、それは決して神によって定められたものではない。西欧の人々が生きる基準に置いてきた、キリスト教的な清く正しく美しい生き方というものは、実は人間のルサンチマンに始まるものであり、神が先にありきというのではない。と同時に、ルサンチマンと表裏一体となって人間社会を作り上げてきたキリスト教的価値観は、「無への意思」を体現するものとして否定されなくてはならない、とニーチェは考えた。
 かくしてニーチェは宣言する。「神は死んだ」。例えば、マタイの福音書に「貧しい人は幸いである。天国は彼らのためにある」という有名な文言がある。これは、貧しい者、無力な者、弱い者こそ神に祝福されるという意味だが、ニーチェは、そこに無力な者が有力な者に持つ怨念やねたみが隠れていると指摘したのである。実際、キリスト教は最初、ローマ帝国の奴隷の間に広まったもので、キリスト教の母胎であるユダヤ教自体、他民族によって滅ぼされたユダヤ人の間に広まったものだった。そうしたことからも、弱者の強者に対するルサンチマンが含まれていると彼は考えた。だから、キリスト教の根底には、弱者(能力のない者、病人、苦悩する者)が強者(能力のある者、健康な者)をねたみ、恨む気持ちが隠されているとニーチェは主張する。だから、ニーチェキリスト教を「奴隷道徳」と批判し、そうした弱者に代表される、没落し衰退し滅んでいくべき存在に同情や憐れみを持つことは、人間の心の弱さから生じたものであり、自分自身を弱者の地位にまで引き下げると見做したのである。つまり、弱者への同情や憐れみは、人間が本来持っている「生」への本能的な欲求(支配欲、権力欲、性欲、我欲など)を押さえつけ、人間を平均化し、無力化してしまうとしたのである。そこで、ニーチェは「神は死んだ」と宣言し、キリスト教的価値観を否定した。
 彼が否定したのはキリスト教の「神」だけではなく、自分よりも崇高なものを認める価値観すべてだった。だから、例えばイデア世界に永遠なる真・善・美を認めるプラトン哲学も、キリスト教の奴隷道徳の系譜に属しているし、その他、自分より崇高な価値観である「理想」、「理念」も否定していく。つまり、それらは弱い人間が自分自身から逃避した結果であり、自分の生を意味づけるためにねつ造したものであり、虚構であると暴いたのである。そして、真の価値基準を、「神」、「天国」、「真理」ではなく、自分が生きている現実の「大地」に置くべきとした。
 また、ニーチェキリスト教が「畜群本能」にとらわれた道徳をもつとしている。畜群本能とは、自分を越えた特別な能力を持った者を危険視し、群れから排除しようとする「弱者」たちの本能であり、それは主体性を否定し、平均化し、没個性的に生きることで安心する心理によって支えられている。そのため、ニーチェは民主主義や平等主義をキリスト教の俗化したものとして嫌悪した。
 さて、ニーチェは善悪というものの始まりを人の心の在り方の中に見出そうとするため、つまり、何か外部に客観的な基準が存在し、それによって善悪が評価されているのではないと考えるため、この世界に対して善悪という区別をつけることができないという主観的な立場に立つ。そして、善も悪も無い世界が永遠に続いていく永遠回帰という状況を設定する。ニーチェは、「人は動物と超人との間に渡された一本のロープ」だと言う。そして、人間は現世を肯定して、苦悩を引き受けつつ生の新たな可能性を見つけ出そうとする超人を目指すべきだと叫ぶ。
 ところで、ニーチェが嫌い、断罪した弱者の立場は、生き物の本性そのものである。生き物は集団、群をつくって生活している。一生物個体だけで生存、生殖し、種の存続を図ることはできない。自然選択とは、集団の中で多数派となったグループが支配的になり、少数派を駆逐する仕組み。生物世界における強者は集団の多数派でしかない。
私見
 原始仏教から大乗仏教への歴史的変化は自力本願から他力本願への見事なパラダイムシフト。キリスト教宗教改革は人間の自由意志の肯定から否定へのパラダイムシフト。このように表現すると比較宗教学的にいかにも内実のある共通性をもつ歴史的変化というように映る。実際、戦争と呼んでもよいような戦いまで引き起こしたこれらシフトは、当時の社会構造まで変えることになったが、自力と他力のいずれが正しいのか、あるいは人には自由意志があるのか否か、と言った肝心の問題への解答が得られたかどうかは不明のままで、しかもそれがずっと続いたままなのである。そのためか、原始仏教が誤りだと言う浄土教の僧はいないし、プロテスタントの信者はキリスト教徒でないというカトリックの神父もいない。
 これまでの議論では他力本願や神の全知全能のもとではすべてが計画され、配慮されていることが正しく、私たちの知識は浅薄で不完全なものに過ぎないことが論証されているかのように語られてきた。だが、正直に言うなら、どの議論も一つの前提のもとでのものに過ぎず、その前提が成立しないなら、何の意味も持たない議論なのである。その前提とは「神や仏(とそれらが有する本性)の存在」である。神の存在証明は中世哲学の重要項目(例えば、トマス・アキナスの5つの道)だったが、これまでになされたどんな証明も正しいと認められたものはない。仏教には仏の存在証明を意識的に行うという習慣さえなく、成仏の例示を経典を通じて物語るだけである。
 「神や仏が存在しなくても何の不合理、不都合も生じない」という言明が正しいことは私たちの限られた日常経験においてはほぼ自明のこと。聖典や経典の内容を無視することによって、物理世界に実質的な不都合が生じるかといえば、実際ほとんどの場合に聖典や経典が前提にされていないことから、何の変化も起きない。一日の生活に必要な物理的な事柄について、神や仏の存在を仮定しないと成り立たないという事柄を物理世界に見つけることは不可能。神を仮定しない科学理論は合理的で、経験的な説明がおかしいならば、そのおかしい理由が解明される。科学理論が不合理、不都合を生み出すなら、その理論は修正されるか、廃棄され、新しい理論に変更され、不都合が解消される。その繰り返しによって科学理論は進化し続ける。聖典や経典は変化しない。それは全く正しいからで、変化する科学理論は常に暫定的に正しいものに過ぎない。だから、科学理論が誤っているとなると、様々な不都合が生まれてくる。そして、この不都合が科学理論を進化させるきっかけとなってきたのである。
 「信仰は信じることであり、証明することではない」のは確かだが、神や仏を仮定した論証が正しいと主張するには、その仮定の証明がなければ、何の意味ももっていない。特に他力や自由意志否定論は神や仏の絶対性、普遍性を前提にするゆえに、神や仏の存在証明が不可欠となる。だが、神や仏の存在を否定しても不都合が起こらないことは、存在を仮定しなければならないということがなくなり、それゆえ、存在証明は不可能となる。
 神や仏が差配し、支配することを因果的に納得できる仕方で説明できるなら、神や仏の力が具体的に理解できることになり、信頼できるのであるが、因果的な成り行きへの神や仏の関与の仕方は全く不明。実際、聖典も経典も神や仏の力を奇蹟としてしか説明しない。穿った言い方をすれば、奇蹟としてしか述べることができないのである。奇蹟の過程が物理学的にわかるのであれば、奇蹟ではなくなってしまい、神や仏の偉力は神通力を失ってしまう。全知全能の神や仏ならば、自らの行為の過程を正確に知り、伝えることができなければならない。それは私たち人間には理解できないことに過ぎなく、神や仏のみわかることだとしても、その「理解できない」理由は神や仏の存在証明を私たちができないことを表明することにつながり、実に痛し痒しの状況を生み出すのである。
 ここで、これまでの議論に登場した重要項目の間の関係を図式的にまとめておこう。
大乗仏教は他力本願を基本にするが、それは自由意志を否定し、すべてを神の決定と捉     えるプロテスタントの考えに類似する。
原始仏教は自力本願を基本にするが、それは自由意志を肯定し、人間の裁量を許すカトリックの考えに通じる。
(・因果的決定論の代表は古典力学決定論であるが、それは自由意志を否定し、すべてが力学法則によって決定されるとする。)
(・因果的非決定論の代表は量子力学であるが、それは自由意志の働く余地を残し、量子力学の法則自体が確率的だとする。)
*100%の自由意志を認める釈迦は、無神論的な修行者
*数%の自由意志をもつのは、カトリック信者
*100%の物理的な決定論を主張するのは、古典力学決定論
これら三つの言明のどの二つについても、それらは両立不可能である。つまり、三つが真になることはあり得ない(三つが偽になることもない)。
 さて、私たちが「信じる」スタートは、私たちがまず意志することであるが、その際の自由な意志はどこから生じるのか。どこかに発端がないなら、私たちは単なる情報処理モデルと解釈され、すべては因果的な結果として説明され、自由意志は存在しなくなる。「信じる」という宗教にとって最も基本的なことが、外部の環境からの刺激の一つになってしまう。他の刺激と同じように、神や仏は偶然的に信じられる、あるいは信じられない対象となってしまう。一方、天国や極楽での生活が神や仏を信じることによって保障されるが、その生活とは自由意志が何もない生活なのだろうか。私たちが望む理想の生活の中に自由意志が含まれていないというのはそれこそ信じられないことである。
 上のような図式的な言明を背景に考えるなら、これまでのどの議論もまともなものではなく、仮定や前提を認めた上での局所的な議論に過ぎなく、普遍的な話とは似ても似つかないものだったことがわかるのではないか。
 修道院や寺院での厳しい修行は、天国に行く、成仏するといった目標達成のマニュアルが不完全であることの見事な証拠。元来、宗教も思想も世界や社会、そして人間についての大雑把な不完全マニュアルに過ぎない。いずれもとても不正確な経験的な手引きでしかない。また、倫理は行為とそれを引き起こす自由意志をどのようにコントロールするかの方法。宗教も倫理も共に実在論的な意義をもつように思えるのは、いずれも実に巧みに心理的なレベルでの説得力をもっているからである。特に、宗教がその威力を発揮するのは物理世界ではなく心理世界。天国や極楽は聖典や経典で描かれるシナリオとそれを巧みに演出する宗教家によって物語の実在化が行われ、私たちの心に訴えることによって心理世界を通じて理解され、実現することになる。
 ニーチェの私たちの観点を逆手に取ったような議論も倫理に関する常識を巧みに前提したもの。彼の弱者の倫理を人間だけでなく生き物全体に広げて適用しようとすると、彼の主張が維持できないことが明らかになってくる。生き物の生存や生殖の工夫という観点からは、全く別の姿が浮かび上がってくる。生物個体が中心ではなく、生物集団が中心になり、集団内での有利、不利が適応度の違いを生み出し、それが自然淘汰の原動力となる。そこでの強者、弱者とは、平均適応度の高い個体、低い個体と解釈でき、ニーチェの強者や弱者とは全く別の意味をもっている。人間が人間以外の動物とは異なる特別の倫理をもって生活していることの証明が何もないところで、人間社会での強者と弱者の常識的な区別を前提にして議論することは、あまりに特殊的で、役立たないはずだが、そうだとは誰も思い至らない。きっと、ニーチェ自身も気づかなかったのだろう。
 これまで述べてきた事柄について、誰もが考える月並みな言明となれば、きっと次のようなものだろう。
・いつも強いわけではなく、いつも弱いわけでもない。
・自由に行動することも、規則に従って行動することもある。
・時には自分の力でやり、時には人の助けを借りてやる。
宗教的な内容とこのような分別めいた平凡な内容との落差は、宗教的な内容と科学的知識との落差に劣らず大きい。それゆえ、宗教的な言明に科学的な知識を使って一途に反応するだけでなく、分別なるものを使って対応するのも一つの方策だということを忘れてはならないだろう。