自力と他力、そして自由意志

 「ふるさとを穿る」では小児往生や幼児洗礼について述べましたが、その特徴は誰かが述べた事柄についての異なる解釈が論争や議論の拠り所になっている点でした。誰かの言明の解釈の多義性についての争いでした。言明の解釈とは具体的なモデルのことであり、複数の、相反するモデルが存在することです。モデルのいずれが正しいかどうかは最初の言明からは決められず、その結果、議論の決着がつかないことになります。これは不毛な論争でしかありません。

 このような注釈や解釈の問題を離れて、小児の信心を解く鍵は自由意志にあるのかも知れません。神や阿弥陀仏が既に私たちを救うことを願っている状況で、私たちは自由意志をどのように発揮できるのでしょうか。自由意志によって信仰を持つ、捨てることは何を意味しているのでしょうか。

 

自力と他力、そして自由意志(1)

++昨日の「ふるさとを穿る」の続編です。

 仏教は自力からスタートしましたから、わざわざ「自力」という言葉を強調する必要はありませんでした。「他力」概念が登場したため、その対概念として「自力」という言葉が使われたのです。自らの力によって仏になることを目指す道が「自力」。苦にあえぐ衆生を救う仏になりたいという(菩提)心を起こし、どのような仏を目指すのかという「願(がん)」をたて、その「願」の通りになることを誓い、「行(ぎょう)」を重ねることによって、その願いを成就し、仏になります。心を正し、行いを正していくこと、それが「行」です。「行」を重ね、自らの苦悩の根源である煩悩を超えることによって、衆生を苦しみから救う「仏」になることができます。

 「行」を自力で行うことは大変に厳しいものです。どんな「行」を行うにせよ、自らすべての煩悩から離れた悟りの境地に到達しなければ、目的は達成できません。短い人生の中で、それを成し遂げる保証はなく、誰でも達成できる道ではなく、勝れた人だけしかゴールに辿り着くことができません。これが「自力」の基本です。

 「自力」の道は誰にも開かれていますが、実はそのゴールに辿り着くことができる人はごく少ないのです。それでは勝れた人だけしか苦しみから解放されないことになり、その上、仏になってからも厳しい道が続きます。勝れた人しか悟りの境地に辿りつけないのでは、いつまでたっても苦しみからの解放は達成できません。そこで、登場したのが大乗仏教です。大乗とは大きな乗り物のことです。多くの人を苦悩から解放するのが大乗仏教の使命で、その中の代表的な一つが「浄土教」。その浄土教の中からパラダイムシフトが起こります。それが浄土宗や浄土真宗に見られる「念仏」の教えです。浄土真宗の開祖親鸞比叡山で20年の修行に励みました。しかし、そこでわかったのは「行」を最後まで修め切ることのできない自分の姿です。そこで出会ったのが浄土宗の開祖法然。彼は「南無阿弥陀仏」という念仏一つで救われることを親鸞に教えます。では、なぜそれが可能なのでしょうか。仏となるためには、仏になって苦にあえぐ人を救いたいという菩提心と「願」、そしてその願を成就させるために「行」を修めることが不可欠です。しかし、一般の人たちが菩提心を起こし、「願」をたて、「行」を修めることは、とてもできそうにありません。でも、実はそのことを見通していた「阿弥陀仏」のいることが経典に述べられていました。その経典は、『無量寿経』、『観無量寿経』、そして『阿弥陀経』。そこで説かれる阿弥陀仏は、自分の力で「願」を起こすことも、「行」を修めることもできない人を必ず救うと願い、仏となることを誓った仏です。阿弥陀仏が私に代って「願」と「行」を完成させ、それを「南無阿弥陀仏」という言葉に込めて私に届け、私はその「南無阿弥陀仏」と念仏するだけで、阿弥陀仏の浄土に往生し、仏に成ることが約束されるという仕組みで、実に見事なシナリオです。

 この阿弥陀仏の力による成仏の道に私の力は全く介在しません。阿弥陀仏は私が仏になるために必要な事柄を準備してくれます。私はそれをただ受け取るだけです。「他力」は「他人の力を当てにする」というようなネガティブな意味に使われますが、ここでの「他力」の「他」は誰を指すのでしょうか。親鸞は「他力といふは如来の本願力なり」と言います。如来阿弥陀仏ですから、他力は阿弥陀の本願(あらゆる命を必ず救うという願い)の働きであると理解できます。

 では、キリスト教での他力と自力はどうでしょうか。キリスト教ではこの世界の歴史にはいつか終わりがあり(終末論)、その時に最後の審判が行なわれ、その後は天国と地獄が永遠に続くと説かれています。ですから、人間にとって本当の悪は永遠の罰だけで、そこに落ちる原因が罪ですから、この世で恐れるべきただ一つのことは罪を犯すことであるという簡単な結論になります。また、「救われる」とは天国に行き、そこで永遠の命を楽しむということです。

 仏教の自力本願は自分の努力によって、つまり厳しい修業によって悟りを開くという考えだと述べました。他方、他力本願は救いが人間の力では達成不可能で、ただ仏の慈悲にすがるしかないという考えです。親鸞によれば、生涯に一度だけでも「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、どんな悪い人でも救われます。それでは、キリスト教は自力本願、他力本願のどちらなのでしょうか。プロテスタント創始者ルターは親鸞とほぼ同じ考え方をします。つまり、ルターは人間がアダムとイブの原罪によって堕落し、人類はその堕落し切った本性を引き継いでいるから、よい行いができない、つまり、人間がする行いはすべて罪だと考えました。でも、キリストを信じたら、その信仰のみによって救われる、とルターは述べています。これは100%の他力本願です。また、ルターは、人間はよいことができないと述べ、人間の自由意志を否定したのです。

 それに対して、カトリックも天国に行くのは人間の力では無理で、神の助け(恩寵)が必要だと説きます。でも、人間の側から何もできないのではなく、人間も神の助けを受け入れて協力する必要がある、と述べます。アウグスティヌスは「神はあなたなしにあなたを造られたが、あなたなしにあなたを救うことはない」と説明しています。カトリックでは人間に自由意志を認めます。ですから、カトリックの考えでは、地獄に落ちる人がいるならば、それはその人が自由に悪を選択した結果である、つまり自業自得となります。

 でも、問題はそう簡単ではありません。なぜならば、「人間は自由でも、神は初めから個々の人間が何をするかを知っています。地獄に落ちる人がいるなら、神はそのことをわかった上でその人を造るのですから、結局人間の運命は前もって決まっていて、自由はない」と反論ができるからです。そして、このように考えたのがカルヴァンです。

 これに対して、カトリックカルヴァンの運命予定説を誤りと断罪します。このような議論の決着をつける拠り所を問われれば、それは聖書。聖書が神の言葉を記していると信じるキリスト教徒は浄土真宗や浄土宗が特定の経典に頼るように、聖書に頼ります。神がすべての人の救いを望むことは、聖書の幾つかの箇所からもわかりますから、神が人をわざと地獄に落とすために造ったことはありえないことになります。

 

自力と他力、そして自由意志(2):ニーチェの場合

 キリスト教的な価値観が長く支配したヨーロッパ社会ではキリスト教の神の意にかなうことが善で、それにそむくことが悪でした。人間は強者に対する弱者の妬みや嫉み(ルサンチマン=憤り、怨恨、憎悪)をいつも生み出します。そして、強者に対する弱者の不平不満の気持ちが、過去への復讐心や未来への償いを求める心(「今はつらいが、未来や来世は必ず良くなる」という他力の心)を生み出します。人は、「道徳的には自分が正しい、いずれあいつらは地獄に落ち、自分は天国にいける」という気持ちを持ち、これが善悪という価値の起源になる、というのがニーチェの主張です。キリスト教的価値観はこの考えにぴったり適合します。ニーチェキリスト教的な神や価値観、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰が消滅し、現実の世界が意味を失い、ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを「神は死んだ」と表現しました。

*「神は死んだ」の表現は『悦ばしき知識』(Die fröhliche Wissenschaft,1882)の108章、125章、343章にある。125章の記述を抜粋すると、Gott ist todt! Gott bleibt todt! Und wir haben ihn getödtet!(God is dead. God remains dead. And we have killed him.)

 キリスト教的な清く正しく美しくという生き方は、世の多くの弱者に対して今どんなにつらくても、清く正しく美しく生きていけば、来世は天国に行けるという考え方を植えつけてきました。それをニーチェは「現世は原罪を背負う、呪われたかりそめの生であり、本当の生は来世にある」とする現実否定の思想、ニヒリズムと表現します。

 ニーチェによれば、善悪という価値に始まり、あらゆるものの価値は人間のルサンチマンに求められるものであり、それは決して神によって定められたものではありません。西欧の人々が生きる基準に置いてきた、キリスト教的な清く正しく美しい生き方というものは、実は人間のルサンチマンに始まるものです。そして、ルサンチマンと表裏一体となって人間社会を作り上げてきたキリスト教的価値観は、「無への意思」として否定されなくてはならない、とニーチェは考えました。

 かくして、ニーチェは「神は死んだ」と宣言します。例えば、マタイの福音書に「貧しい人は幸いである。天国は彼らのためにある」という有名な文言があります。これは、貧しい者、無力な者、弱い者こそ神に祝福されるという意味ですが、ニーチェは、そこに無力な者が有力な者に持つ怨念やねたみが隠れていると指摘したのです。実際、キリスト教は最初、ローマ帝国の奴隷の間に広まったもので、キリスト教の母胎であるユダヤ教自体、他民族によって滅ぼされたユダヤ人の間に広まったものでした。そうしたことからも、弱者の強者に対するルサンチマンが含まれていると彼は考えたのです。ですから、キリスト教の根底には、弱者(能力のない者、病人、苦悩する者)が強者(能力のある者、健康な者)をねたみ、恨む気持ちが隠されているとニーチェは主張します。ニーチェキリスト教を「奴隷道徳」と批判し、そうした弱者に代表される、没落し衰退し滅んでいくべき存在に同情や憐れみを持つことは、人間の心の弱さから生じたものであり、自分自身を弱者の地位にまで引き下げると見做したのです。つまり、弱者への同情や憐れみは、人間が本来持っている「生」への本能的な欲求(支配欲、権力欲、性欲、我欲など)を押さえつけ、人間を平均化し、無力化してしまうとしたのです。そこで、ニーチェは「神は死んだ」と宣言し、キリスト教的価値観を否定したのです。

 彼が否定したのはキリスト教の「神」だけではなく、自分よりも崇高なものを認める価値観すべてでした。ですから、イデア世界に不滅の真・善・美を認めるプラトン哲学も、キリスト教の奴隷道徳の系譜に属し、その他、自分より崇高な価値観である「理想」、「理念」も否定していきます。つまり、それらは弱い人間が逃避した結果であり、自分の生を意味づけるために捏造したものであり、虚構であると暴いたのです。そして、真の価値基準を、「神」、「天国」、「真理」ではなく、自分が生きる現実の「大地」に置くべきとしました。

 また、ニーチェキリスト教が「畜群本能」にとらわれた道徳をもつとしました。畜群本能とは、自分を越えた特別な能力を持った者を危険視し、群れから排除しようとする「弱者」たちの本能であり、それは主体性を否定し、平均化し、没個性的に生きることで安心する心理によって支えられています。そのため、ニーチェは民主主義や平等主義をキリスト教の俗化したものとして嫌悪しました。

 さて、ニーチェは善悪というものの始まりを人の心の在り方の中に見出そうとするため、つまり、何か外部に客観的な基準が存在し、それによって善悪が評価されているのではないと考えるため、この世界に対して善悪という区別をつけることができないという主観的な立場に立ちます。そして、善も悪も無い世界が永遠に続いていく「永遠回帰」を設定します。ニーチェは、「人は動物と超人との間に渡された一本のロープ」だと言います。そして、人間は現世を肯定し、苦悩を引き受けつつ生の新たな可能性を見つけ出そうとする超人を目指すべきだと叫ぶのです。

**ところで、現在の私たちにはニーチェが嫌い、断罪した弱者の立場は生き物の本性そのものと考えられています。生き物は畜群、集団をつくって生活しています。一生物個体だけで生存、生殖し、種の存続を図ることはできません。自然選択は集団の中で多数派となったグループが支配的になり、少数派を駆逐する仕組みです。生物世界における強者は集団の多数派でしかありません。これはニーチェの考えが生物学と両立しないことを示しています。

 

自力と他力、そして自由意志(3)

 原始仏教から大乗仏教への歴史的変化は自力から他力へのパラダイムシフト。キリスト教宗教改革は個人の自由意志の肯定から否定へのパラダイムシフト。このように表現すると、共通した歴史的変化のように映ります。実際、戦争まで引き起こしたこれらシフトは、当時の社会構造まで変えたのですが、自力と他力のいずれが正しいのか、あるいは人には自由意志があるのか否か、と言った肝心の問題への解答が得られたかどうかは不明のままで、しかもそれが今でも続いたままです。そのためか、原始仏教が誤りだと言う浄土教の僧はおらず、プロテスタントの信者はキリスト教徒でないというカトリックの神父もいません。

 これまでの議論では他力本願や神の全知全能のもとではすべてが計画され、配慮されていることが正しく、私たちの知識は浅薄で不完全なものに過ぎないことが論証されているかのように語られてきました。でも、正直に言うなら、どの議論も一つの前提のもとでの議論に過ぎず、その前提が成立しないなら、何の意味も持ちません。その前提とは「神や仏(とそれらが有する本性)の存在」です。神の存在証明は中世哲学の重要項目(例えば、トマス・アキナスの「5つの道」)でしたが、これまでの証明で正しいと認められたものはありません。仏教には仏の存在証明を意識的に行うという習慣さえなく、経典によって物語るだけです。

 「神や仏が存在しなくても何の不合理、不都合も生じない」という言明が正しいことは私たちの限られた日常経験においてはほぼ自明のことです。聖典や経典の内容を無視することによって、物理世界に実質的な不都合が生じるかといえば、何の変化も起きません。一日の生活に必要な物理的な事柄について、神や仏の存在を仮定しないと成り立たないという事柄を物理世界に見つけることはできません。科学理論が不合理、不都合を生み出すなら、その理論は修正され、あるいは、廃棄され、新しい理論に変更され、不都合が解消されます。その繰り返しによって科学理論は進化し続けます。でも、聖典や経典は変化しません。聖典や経典は全く正しいのに対し、変化する科学理論は常に暫定的に正しいに過ぎません。でも、科学理論が誤っているとなると、様々な不都合が生じてきます。そして、この不都合が科学理論を進化させるきっかけとなってきました。

 「信仰は信じることであり、証明することではない」のは確かですが、神や仏を仮定した論証が正しいと主張するには、その仮定の証明がなければ、何の意味ももちません。特に、他力や自由意志否定論は神や仏の絶対性、普遍性を前提にするゆえ、神や仏の存在証明が不可欠となります。でも、神や仏の存在を否定しても不都合は起こりません。すると、存在を仮定する必要がなくなり、存在証明は不要になります。

 神や仏が差配し、支配することを因果的に納得できる仕方で説明できるなら、神や仏の力が具体的に理解できることになり、信頼できるのですが、因果的な過程への神や仏の関与の仕方は不明です。実際、聖典も経典も神や仏の力を奇蹟としてしか説明しません。穿った言い方をすれば、奇蹟としてしか述べることができないのです。奇蹟の過程が物理学的にわかるのであれば、奇蹟ではなくなり、神や仏の偉力は神通力を失ってしまいます。

 これまでの議論に登場した重要項目の間の関係を図式的にまとめておきましょう。

 

大乗仏教は他力本願を基本にするが、それは自由意志を否定し、すべてを神の決定と捉えるプロテスタントの考えに類似する。

原始仏教は自力本願を基本にするが、それは自由意志を肯定し、人間の裁量を許すカトリックの考えに通じる。

(・因果的決定論の代表は古典力学決定論であるが、それは自由意志を否定し、すべてが力学法則によって決定されるとする。)

(・因果的非決定論の代表は量子力学であるが、それは自由意志の働く余地を残し、量子力学の法則自体が確率的だとする。)

 

 そこで、次の三つの言明を考えてみましょう。

 

(1)100%の自由意志を認める釈迦は無神論的な修行者である。

(2)カトリック信者は数%の自由意志をもつ。

(3)古典力学決定論は100%の物理的決定論を主張する。

 

これら三つの言明のどの二つについても、それらは両立不可能です。つまり、三つがすべて真になることはあり得ないのです(三つが偽になることもない)。

 さて、私たちが「信じる」スタートは、私たちがまず意志することですが、その際の自由な意志はどこから生じるのでしょうか。どこかに発端がないなら、私たちは単なる情報処理モデルと解釈され、すべては因果的な結果として説明され、自由意志は存在しなくなります。「信じる」という宗教にとって最も基本的なことが、外部の環境からの刺激の一つになり、神や仏は偶然的に信じられる、あるいは信じられない対象となります。一方、天国や極楽での生活が神や仏を信じることによって保障されますが、その生活とは自由意志が何もない生活なのでしょうか。私たちが望む理想の生活の中に自由意志が含まれていないというのはそれこそ信じられないことです。

 上のような図式的な言明を背景に考えるなら、これまでのどの議論もまともなものではなく、仮定や前提を認めた上での局所的な議論に過ぎなく、普遍的な話とは似ても似つかないものだったことがわかるのではないでしょうか。

 修道院や寺院での厳しい修行は、天国に行く、成仏するといった目標達成のマニュアルが不完全であることの見事な証拠です。元来、宗教も思想も世界や社会、そして人間についての大雑把な不完全マニュアルに過ぎません。いずれもとても不正確な経験的な手引きでしかありません。また、倫理は行為とそれを引き起こす自由意志をどのようにコントロールするかの方法です。宗教も倫理も共に実在論的な意義をもつように思えるのは、いずれも実に巧みに心理的なレベルでの説得力をもっているからです。特に、宗教がその威力を発揮するのは物理世界ではなく心理世界。天国や極楽は聖典や経典で描かれるシナリオとそれを巧みに演出する宗教家によって物語の実在化が行われ、私たちの心に訴えることによって心理世界を通じて理解され、実現することになります。

 誰もが考える日常生活での月並みな言明はきっと次のようなものでしょう。

 

・私たちはいつも強いわけでも、いつも弱いわけでもない。

・私たちは自由に行動することも、規則に従って行動することもある。

・私たちは時には自分の力でやり、時には人の助けを借りてやる。

 

 宗教的な内容とこのような分別めいた平凡な内容との落差は、宗教的な内容と科学的知識との落差に劣らず大きいものです。それゆえ、宗教的な言明に科学的な知識を使って一途に反応するだけでなく、分別なるものを使って、平凡に対応するのも一つの方策だということを忘れてはならないでしょう。

 

自力と他力、そして自由意志(4):A君のとりあえずの理解

 これまでの自力、他力、自由意志の話を聞きながら、A君は自分なりに単純化して、まとめてみました。

 私たちは世界の中で行動しています。その世界は因果的な連関をもつ出来事や状態の集まりで、因果応報のこの世は「環境」と呼ぶことができます。行動もまた環境世界で起こる出来事の一つですから、世界の因果連関の中に組み込まれています。このような因果の鎖の一部分を取り出してみると、次のような一連の系列が見えてきます。

 

(1)環境、遺伝子 → 心(=信念+欲求のシステム)→ 行動

(2)神(仏)、環境、遺伝子 → 心 → 行動

 

(1)は科学主義的な立場からの因果的系列の図式、(2)は神や仏の意志や本願が入る立場からの因果系列の図式です。環境内で起こる変化は知覚装置を通じて脳に伝えられ、そこで心によって処理され、環境内に行動(行為)による変化を引き起こし、それが繰り返し生じます。知覚装置を通った刺激は情報として処理されるのですが、その処理が自力によるのか、他力によるのかによって宗教的な立場の違いが起こってきたというのがA君の解釈です。

 二番目の矢印→は行動の原因としての心の関与を示していますが、最初の→は外部の原因によって引き起こされる心の状態(特定の信念や欲求をもつこと)を示しています。心が行動に関与しているかどうかは私たちの常識的な世界ではしばしば重要な役割を果たします。例えば、ある行動が故意か否かは裁判の判決において大きな違いを生みます。でも、心の働きと物理世界との関係は決して明らかではありません。この明らかでない関係が引き起こす典型的な問題が自由と決定に関するパズルです。このパズルは次のように表現できます。人間の信念、欲求、そして行動がその人自身のコントロール外のものによって引き起こされるなら、そこに私たちの自由な裁量は入っていません。上の最初の矢印→では環境や遺伝子が人間の心のあり方を決定しているように見えます。環境や遺伝子は私たちのコントロール外のものです。それらが心の状態を決定するなら、二番目の→の結果は自発的になされた行動ではないことになります。でも、私たちは自分の行動が自発的なものであり、それゆえ、その行動に対して責任をもたなければならないと思っています。そうであるなら、どのようにして行動が自由選択の結果と言えるのか、これが伝統的なパズルです。つまり、伝統的なパズルを含んだままで、自力か他力かと問い、それが異安心にまでつながるという事態が長い間続いてきて、いまだに埒が明かない状況が続いている、これがA君の単純な要約です。

 でも、何とも中途半端で、何かがおかしいというのがA君の実感です。そして、他力や自力の意味が曖昧だというのも明々白々で、経典やテキストの解釈では全く不十分だとA君は考えています。

 

自力と他力、そして自由意志(5):信念と知識の交錯

 信念(信条、belief)という言葉は日常世界では過大に評価されているようです。政治家が「この政策の実現は私の政治的信念です」と訴えると、何かそれだけでその政治家の評価が高まるような効果をもっています。科学者が自分の実験結果の真偽を問い質され、「それが真なのは私の信条です」と答えたら、「科学は信条でも心情でもない」と反発され、誰もその科学者を信じないのではないでしょうか。

 経験主義的な伝統によれば、知識(知ること、knowledge)とは「正当化された真なる信念」と定義されてきました。私たちが知識と呼んできたものは、信念に「正当化(justification)」と「真理(truth)」が加わったものと考えられてきたのです(knowledge=justified true belief)。この知識の定義は近年疑われ出したのですが、知識と信念の間に横たわる距離はやはり認められたままで、知識に比べると信念は信用できない、劣ったものと理解されています。知識から真理と正当化の二つの条件が剥奪されると、知識は信念に成り下がるのです。

 「信念は個人的な意識内容であり、公共的な知識ではない」という特徴づけが誤っている訳ではないのですが、信念と知識の関係を別の視点から自力と他力、そして自由意志を捉え直してみましょう。「I think that A」が「Aを信じる私の信念、信条」です。Aが真であるかどうかは誰かがそれを信じることと同じではありません。Aの真偽に関係なく、私はAを信じることができます。明白に嘘であっても、その嘘を信じることが私にはできます。このような意味で、信じることは自由なのです。ですから、私たちは思想も宗教も自由に信じることができます。選択の自由が信念にありますから、選ばれた信念や信条に基づいて宣伝や折伏が行われ、徒党を組むことができるのです。

 さらに、信念や信条は夢、希望、願望等につながっています。プラン、計画、設計の推進や阻止も真理の場合には原理的にあり得ないことです。科学者でも真理かどうかを確かめるためのプランや計画を練りますし、まだ真理かどうかわからない事柄に賭けることはむしろ日常茶飯事のことです。それが勝負、ゲーム、ギャンブルとなると、真偽がわからない事柄を積極的に利用することになります。名馬ディープインパクトが勝つかどうかわからなくても、勝つと信じて賭けたことを想い出す人が多い筈です。予測できないことを逆手にとって、人生を楽しむことに巧みに転用するのが人間で、「信念」をもつという人間の特徴が同じ人間によって使われてきたのです。

 恋や友情も事業の成功や失敗と並んで、あらかじめ結果がわかっているものではありません。わかっていたら人生はつまらないものになってしまいます。一寸先は闇であるからこそ、信念に基づく行動が未来を創り出すことになっているのです。確実な未来がわからないということを巧みに転用して、それが夢の実現だという風に捉えて私たちは生きているのです。

 経験科学の知識は暫定的で、反証される可能性をもつというポパー(K. Popper)の考えは、経験的な真偽は常に暫定的だという主張であり、これを認めるなら私たちが住む世界の真偽は名札のようなもので、真偽の不明なものこそ未来を決める要になっていることがわかるでしょう。このように見てくると、最初の政治家の政治的信念は単なるレトリックではなく、闇を切り拓く先頭に立つという意気込みの表明だと信じることもできるのです。

 結局、真偽が不明なものでも、それを信念としてもち、さらにそれを夢や希望に変えてしまうという心理的な芸当をいとも簡単にやってのけるのが私たち人間だということに落ち着くのですが、それが何を意味しているかと言えば、人間は恐ろしい程に無鉄砲で怖い生き物だということです。そして、その人間の恐ろしさの起源は私たちのもつ自由意志に由来していて、その自由意志への対処の重要な方策が宗教や倫理、そして法だったのです。